その瞬間、屋根裏部屋に乾いた音が響いていた。 汚らわしい売女。
「だま・・・れ」
僕に打たれた白い頬を赤く染めたまま、しかし鹿王は僕を見かえし、ニヤリと笑った。
「図星だったから腹が立ったか。それとも、てっきり惚れられていると思っていた野郎が、組織の犯罪目的で近づいていただけだと認めたくないのか。そりゃあ、そうだろうな。相手は自分が今まで情けをかけてやっていた高寧人で、感謝されてしかるべき、哀れな青年の筈が、牙を隠して近づいているだなんて、お前のプライドが許さないだろうよ」
「黙れっ・・・・!」
「けどな、そうやってお前みたいなお花畑野郎がホイホイと自分から連中に近づき、犯罪に巻き込まれて、他の日本人が迷惑しているってことを知っておけ。くだらない同情心からお前は偽善に満ちた優越感を満足させられるのかも知れないが、お前が誘拐されればお前の御両親は死ぬほど心配するだろう。お前を預かった俺のお袋や親父の責任だって、どうなると思う。犯罪に巻き込まれたから仕方ないでは、すまないんだぞ。当然寝る間も金も惜しんで奔走することになるし、お前のために歓迎会を開いた、ここの宿泊者達だって同じだ。警察も一応それなりに動くことになる」
「嫌味ったらしく言わなくて、結構だよ。そのDVDを見たときは、それなりにいい人かと思ったのに、勘違いだった・・・がっかりだ。あなたや、ここの人達に迷惑はかけないから、安心してください。自分の身ぐらい自分で守ります」
いつまでも取られたままの腕を勢いよく振り払うと、今度こそ僕は出て行こうとした。
「ほう、言ったな・・・」
しかし、嘲笑うような声が後ろから聞こえ、次の瞬間には肩を強く引っ張られて、シャツの襟を締めつけられた。
殴られるのかと思えば、そのまま後ろへ倒されてしまう。
受け身を取り損ねたが、思ったよりも早い速度で、柔らかい衝撃に身を包まれて、自分がベッドへ押し倒されていることを知る。
振動で何かが床へ落ち、ゴトリと重い音が響いた。
ベッドには鹿王の撮影機材が置いてあった筈だ。
大事なカメラが入っていただろうに。
「な・・・何して・・・」
「今の襲撃が路上で起きていたら、後頭部からまともにアスファルトへ落ちていたな・・・大したディフェンス力だ」
上から見下ろしてくるモスグリーンの瞳が、馬鹿にしたように細められる。
「不意打ちだったんだから、仕方ないだろ・・・」
「襲撃者がご丁寧に警告してから攻撃してくると思っているのか? 能天気も大概にしろ」
「さっきから何なんだよ、そもそも僕が犯罪に巻き込まれる前提で話を進めるな」
「巻き込まれてからでは遅いと、何度言えば理解できる」
「倫敦ってところは、留学生が全員護身術をマスターしていないと道を歩けないほど、危険な街なのか。ガイドブックにそんなこと書いていなかったぞ」
「少なくとも日本ほど安全ではない。日本だって、どこもかしこも治安が万全ってわけではないんだぞ。だから凶悪犯罪が起きるし、政府認定の拉致被害者が未だにいる」
「話をややこしくするなよ」
「お前の知らない場所に、危険がいくらでも潜んでいると言っているんだ。そしてお前はその危険と隣り合わせになっているばかりか、自ら飛び込もうとしている・・・俺にはそう見えるから、こうして警告している」
語調を強めて鹿王が言った。
僕の肩を押さえたまま、見下ろしているモスグリーンの瞳に、さきほどのような嘲笑はすでに消えていた。
「ヒデを・・・・悪く言うな」
それでも、僕には認められなかった。
ヒデを信じたかった。
「キスされたから、もう惚れたのか。安い奴だ」
言い当てられて、鼓動が早くなる。
顔はもう真っ赤だろうが、この体勢では逃げようもない。
「そんな考え方しかできないのか・・・あんたって、どこまでも下劣な男だな」
「俺が下劣ね・・・・そう思うなら、その通りに振る舞ってやろう」
「えっ・・・痛っ」
言葉が途切れるなり、額の上を強く抑えられた。
髪が引っ張られて痛さに目を閉じると、口唇に柔らかい感触が当たった。
キスをされている・・・そう理解した時には、空いた手で顎をとらえられて、強引に口を開けられた。
「ふ・・・・んんっ・・・ふっ・・・」
舌が入ってきて、卑猥な動きで口内を蹂躙される。
呼吸が出来なくなり、頭がぼうっとした。
目尻から幾筋も涙が零れ落ちる。
不意に口唇を解放されて、ぼんやりとした意識の中で彼を見た。
間近に見下ろすモスグリーンの瞳が、夢の中の物と区別が付かなくなる。
ジェム・・・・。
「随分と可愛い顔をするんだな・・・・嵯峨、俺の物になるか」
「え・・・」
「そうすれば俺が守ってやる・・・あいつとはもう寝たのか?」
「何言って・・・そんなわけ、ないだろう!」
「ほう・・・してほしかったのに、してもらえなかったってところか。・・・なら、俺もあいつも、まだキスどまりってわけだ。悩むことはないだろう、俺と付き合え嵯峨。もっと強引にされた方がいいなら、勝手に先へ進めるぞ」
鹿王が肩のあたりへ顔を埋めたかと思うと、強く首筋に吸いつかれる。
「や・・・めっ・・・ああっ」
身体じゅうの神経が痺れるような感覚があった。
こんなことで、感じてしまうなんて・・・彼はヒデじゃないのに!
いつのまにかシャツのボタンを外されて、肌を這いまわる手の動きを感じた。
突起の上を指が何度も行き来して、次第に息が上がって来る。
「・・・尖ってるぞ」
囁きにも似た響きで、鹿王が悪戯っぽく耳元でそう言った瞬間、顔から火が出るほどの羞恥を感じた。
だが、そんな感覚さえも快感にしかならず、彼に触れられる全身の神経がますます研ぎ澄まされてゆく。
「んっ・・・・」
胸から脇腹にかけて、円を描くように愛撫されながら、掌が徐々に下へと移動して、ジーンズのベルトにかかった。
しかし、どういうわけかそこから下へは中々降りて来ない。
あと、少しなのに・・・。
「ほう・・・」
揶揄うような声に、突然冷や水を浴びせられた気がした。
「え・・・」
いつのまにか閉じていた瞼を押し上げて、目の前の男を見上げる。
モスグリーンの目を細めた鹿王が、嘲るような笑みを口元に浮かべて見下ろしていた。
蔑まれた・・・・?
けれど、どうして・・・じゃあ、どういうつもりでこんなこと。
「いい・・・加減に・・・」
「ん?」
「人を馬鹿にするのも・・・いい加減にしろっ!」
ありったけの力を振り絞り、足を振り上げてベッドから男を蹴り落とすと、今度こそ階段を駆け下り、自室へ戻った。
部屋を出る瞬間、床に蹲ったままの鹿王が、どの部分を両手で押さえて悶絶しているのかは、確認するまでもなかったが、良い気味だとしか思えなかった。
へえ、弁護士さんなの・・・羨ましいわ。
頭がいいのね。
メアリー・ジェーンと言っただろうか。
波打つ豊かな髪に、白い肌、鳶色の瞳・・・・。
よろしかったら、上がっていらっしゃらない?
これからお茶の支度を致しますの。
弟たちも寮へ戻ってしまって、寂しい思いをしておりましたのよ。
髪の色こそ違ったが、良く似た美しい女だった。
猫撫で声に媚びるような瞳、男を騙すうそつきの口唇。
いえ・・・その、御留守でしたら結構です。
こちらに居ると伺って、寄らせて頂いただけで・・・。
あの女に良く似た・・・。
あら、ジェム・・・早かったのね。
お友達のドゥルイットさんが、もう帰るって仰っているの。
あなたからも、お引き留めして!
ステラ・スティーヴンと・・・そっくりで。
いやだねぇ、ぼうっとしちゃって。
別の女のことでも考えていたのかい?
それとも、男?
人殺し・・・・・!
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