***第4章*** 金曜以来、僕はだんだん母のようになりつつあるような気がしている。 逃げよう・・・二人で生きていけばいいじゃないか! 人殺し・・・! Scenes of my childhood arise before my gaze,
死こそが最良の選択だ。
12月早朝のキングズ・ベンチ・ウォークは、辺りも暗く、吐く息が街灯の下で白く煙った。
「あれ、先生じゃないですか・・・お早いですね。もう御出勤ですか?」
角灯を高く掲げた彼は、明るい調子で声をかけてくる。
「こんばんは・・・いや、おはようかな。まあね・・・庶民は死ぬまで働くしかないさ」
「またまた、御冗談を。本当に好きですねえドゥルイット先生も。いつもきっちりしていらっしゃる貴方が、われわれしがない巡査と同じ貧乏人だとは思えない。それにしても、大変ですねこんな時間から・・・男子校の先生ですよね」
「非常勤だよ。毎日ってわけじゃない・・・ところでワトキンス、いつまでもこんなところで喋っていていいのかい? それともまだ世間話を続けるつもりなら、そのカンテラをもう少しだけ下げてくれないかな、眩しくてしょうがない・・・」
「あっ・・・これは失敬。実は先生にひとつお聞きしたい事がありまして・・・、ドーセット・ストリートにはよく行かれますか?」
「どういう意味かな」
「いえ、実は例の切り裂きジャック事件で、『ホーン・オブ・プレンティ』っていうパブへ聞き込みに行ったところ、事件の当夜、けしからんことにミラーズ・コートの入り口で小便をしていた男が、ある女を見かけたと言っておりまして、絵が得意な職員に似顔絵を描かせてみたところ、それを見て先生そっくりだと言う者がおりましたもので・・・」
そう言いながらエドワード・ワトキンス巡査は、ポケットからよれよれになった一枚の紙を取り出し、角灯の灯りで照らした。
「なるほど・・・確かに女だね。ついでに言うと僕には、ただの売春婦に見えるんだが、君にも彼女が僕に見えるのかい?」
「それは、その・・・似ていると言われれば、そんな気もしますし・・・しかし・・・」
真面目で正直な巡査は、返答に困っているという風情だった。
「参ったね。疑われているようじゃあ仕方がない。・・・同じ恰好をして見せた方がいいのかしら」
語尾でわざとらしい裏声を使いながら、女のようなポーズを取ってみた。
「大変申し訳ありません・・・失礼だとは存じておりますが、お願いできるようであれば、助かります」
少しは遠慮をしてくれるのかと思えば、どうやら判断を誤ったらしかった。
ここまで話していて漸く思い出したが、彼には一度、不味い瞬間を見られていた。
いつものようにジェムに誘われ、ホワイトチャペルの女装クラブへ行った帰り、悪乗りしてドレスを着たまま店を出た。
何人騙せるかという賭けは、僕の勝ちだった。
ところが途中で彼と逸れてしまい、仕方なくそのまま一人で帰ることにしたのだ。
そこで声をかけてきたのが、あの女だ。
バーナー・ストリートで会った・・・、名前を忘れた。
「よかろう・・・捜査に協力をするのは、我々臣民の義務だからね」
「本当に申し訳ございません、先生」
「だが、済まないが戻って来てからでもいいかな」
そう言ってコートの懐から往復切符を見せた。
「あれ・・・お仕事に行かれるんじゃなかったんですか」
「そういうことにしておくつもりだったんだけど、実は現在失業中でね。悪い話っていうのは続くもので、先週末、母が他界したんだ」
プライベートな問題を告白した瞬間、巡査の顔が歪んだ。
厄介ごとに首を突っ込んだ・・・そういう顔だ。
「そうだったんですか・・・お母様が。それは・・・ご愁傷様です」
「いや・・・近いうちにこうなりそうな気はしていたから。葬儀のあと、色々と兄弟達と話さないといけないだろうから、暫くはウィンボーンにいると思う。けれど、帰ってきたら必ず協力するよ。それでいいかな」
「助かります・・・お気をつけて。それと、先生もどうか・・・ご自愛下さい」
そう言って敬礼をすると、巡査はストランド方面へ向けて歩いて行った。
「ありがとう。それじゃあ、また・・・帰ってきたときに・・・」
見送るつもりだった角灯の明かりは、早朝の霧に紛れて、すぐに見えなくなった。
人の良い巡査との逢瀬を心で惜しみつつ、たった今出て来たばかりの煉瓦塀の建物を振り返る。
ここで過ごした時間は、大して長くはない。
それでも、31年の人生において、もっとも苦しく、もっとも辛く、もっとも甘い・・・最後の期間だ。
「ジェム・・・」
モスグリーンの瞳に狂気は見られなかった。
彼の言葉は、いつもの気まぐれでもない・・・わかっていた。
ミラーズ・コート13番地の女・・・恐怖に歪んだ顔。
ほんの今まで死を望んでいたくせに、もう死に恐怖している・・・矛盾だと感じた。
肩が覚えている、強く揺さぶる手の力・・・ジェム。
僕だってそうしたい・・・君と生きていけるなら、どこまでも付いていきたい。
膝から崩れ落ちそうになり、必死で足を踏ん張った。
靴底で砂利が重なり合う。
Bringing recollections of by gone happy days...
女が歌っていたそれは、愛蘭土(アイルランド)民謡だっただろうか。
母の墓に捧げた菫の花・・・確かそんなタイトルだった。
脚を開き、腕を折り曲げて横たわる、下着姿の女の、大きく拡げた腹腔へ手を入れる・・・。
だぶつく衣類が邪魔になり、こちらも着ていた赤いドレスやペチコートを脱いで裸になると、嵩張る布の塊を丸めて、煤けた暖炉へ放り込んだ。
めらめらと炎が揺らめいて、煙とともに鉄臭い匂いまで、煙突から流れていく気がした・・・いや、布地に染み込んだ返り血程度で、そんなことがある筈はないのだが。
不意にコートのポケットで、固いもの同士がゴツンとぶつかる音がする。
適当なサイズが、なかなか見つからず、昨日のうちにグレート・イースタン鉄道の線路内に入って、わざわざ拾い集めたものだった。
中には拳大の石が一杯に詰め込んである。
このぐらいあれば、そうそう浮かんでくることはないだろう。
ヴィクトリア・エンバンクメント方面へ出るとテムズ川に沿って、いつまで経っても夜が明けない冬の倫敦(ロンドン)を僕は一人で歩きはじめた。
02
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