「何か足りないような気もするけど・・・まあ、いいか」 俺の物になるか。 重い気分のまま学校へ到着するが、1時間目が始まってもヒデは来なかった。
パスポートとスチューデントカード、財布、オイスターカードが入った貴重品ケース、そしてテキストとルーズリーフ、ペンケース、電子辞書などの勉強道具を確認すると、首を捻りつつもリュックの蓋を締める。
そして戸締りを済ませると部屋を出た。
階段の踊り場で少し立ち止り耳を澄ませてみたが、聞こえてくるのは階下からの話し声だけだ。
屋根裏部屋へ続く細い階段は薄暗いままであり、上からは物音ひとつ聞こえない。
部屋の主はいるのやら、いないのやら。
廊下の奥へ耳を澄ませてみるが、扉が開きっぱなしの浴室も人の気配はしない。
3階へ下り、台所の前をゆっくりと通り過ぎながら、何となく視線を彷徨わせる。
「あ、嵯峨(さが)君」
すぐに車折(くるまざき)が台所から顔を覗かせて、声をかけてくれた。
台所のテーブルには山ノ内等持(やまのうち とうじ)がこちらを向いて座っており、入口へ近づくと、窓から入ってくる雑踏に掻き消えそうな呟きで、「おはよう」と聞こえてきた。
しかし挨拶だけすませた山ノ内は、すぐ視線を逸らし、トーストへ黙々とバターを塗る作業に戻ってしまう・・・。
山ノ内は車折と同じ大学に通っている、車折よりも一歳年上の成人した青年だが、社交的で世話好きのルームメイトと違ってかなりの人見知りのようだった。
殆ど無口なので、どうもとっつきにくく、最初は嫌われているのかと思ったが、車折によると大学でも同じ調子で、放っておけば容易く孤立しそうなのだと苦笑しながら教えてくれたことがある。
だからこそ、目が離せず、二人は大抵一緒に行動しているのかも知れないが。
・・・なんとなく、ヒデと西院(さいいん)の関係に似ていると思った。
「おはようございます、山ノ内さん」
こちらも挨拶を返したあとで台所から目を放し、向かいの扉を見つめる。
耳を澄ませてみるが、3階の浴室やランドリーにも人がいる様子はなかった。
階下も静かである。
「ひょっとして、鹿王(ろくおう)君を探してる?」
ギョッとして車折を振り返った。
「・・・いや、えっと。部屋にいそうになかったから、もう出掛けちゃったのかなあと・・・」
「とりあえず、僕が起きてからは見てないな・・・多分、朝早くに出ちゃったんじゃないかな」
「そうですか・・・」
「彼と何かあった?」
「あ・・・あの・・・、そういうわけじゃ・・・」
何と言ったものか、返答に窮した。
彼はどういうつもりで、あんなことを言ったのだろうか。
「もしも広隆(ひろたか)さんや有栖(アリス)さんに言いにくいようなことなら、相談にのるよ」
「えっ・・・?」
顔を上げると、車折さんは気遣うような目をして僕を見ていた。
「その・・・実はさ、僕らの部屋にまで聞こえていたんだ、・・・君が怒っている声とか、そのあとで何かが床にぶつかるような音とか。・・・怪我でもしているんじゃないかと、心配していた。良かったよ、大丈夫そうで」
「そうでしたか・・・ご心配おかけしました。少し喧嘩はしましたけど、大したことないので平気です」
最終的に僕が怪我をさせた可能性があるが、それは向こうが悪い。
いくら鹿王が心配してくれたとはいえ、彼の態度はあまりに無礼だった。
こちらにも怒る権利はあるだろう。
「そうかい? だったらいいけど・・・」
しかし車折は、いつでも相談に乗るから、何かあったらすぐに声をかけてくれと言ってくれた。
彼に礼を述べる。
そして何気なくもう一度テーブルの奥へ目を向けると、僕らの会話をじっと見守っていたらしい山ノ内が、車折に同意するとでもいうように、無言でコクリと頷いてみせた。
黙ってはいたが、彼にも同じように心配をかけたようだった。
申し訳ない気持ちを抱えて、下宿を後にする。
それとなく西院に探りを入れてみるが、彼も何も聞いていないという。
「まあ、心配はいらないんじゃないか? 嵯峨が来る前は、結構ちょくちょく休んでいたぞ、あいつ」
一緒にカフェで休憩時間を過ごしているときに、西院がそう教えてくれる。
「そうなんだ・・・」
僕が通い始めてからは、一度も休んでいるのを見たことはなかったので、少し意外だった。
2時間目が始まってしまい、15分がすぎたころ。
「Sorry I'm late...」
そう言ってヒデが入って来た。
20分以上の遅刻で入室禁止になるので、ぎりぎりセーフだ。
入り口に近い場所でで空いている席に座し、鞄から筆記用具を取り出す。
幸い隣の席は宇多野(うたの)だったため、テキストは彼女から見せてもらうようだった。
彼は相変わらず図書室へ入れない状態が続いているのだ。
そしてヒデの顔をもう一度見た直後、僕は息を呑んだ。
その後の授業は、まるで上の空だった。
「ちょっと待ってよ・・・」
教室から出て行こうとするヒデを追いかけ、声をかける。
ドアで一瞬立ち止まり、しかしまたすぐに廊下へ出ようとするヒデの服を掴んで後ろから引っ張った。
「何やねんな、・・・ちょお、俺急いでんねんけど」
「どうして無視するんだよ」
「無視ちゃうって」
「その怪我・・・一体どうしたの? 遅れたのって、それが原因?」
「ああ、何でもない。酔っ払いに絡まれただけや」
「どこで朝から酔っ払いに絡まれたりするのさ。嘘つくならもっと上手についてよね」
「誰が朝やゆうてんな。昨日や、昨日の夜。帰ろう思たら、酒臭いオッサンが絡んできよったの」
「嘘ばっかり」
「何でやねん。・・・もうええわ。とにかく俺急いどるから、帰るで」
そう言って、ヒデが先に階段を降りはじめた。
「じゃあ一緒に帰る」
その後に続いて僕も降りる。
そして初めて自分から、ヒデの手をとった。
「嵯峨・・・お前なぁ・・・」
「どうかしたの? 手なんて何回も繋いでるでしょ。今更恥ずかしがることないじゃない」
「・・・・ほんまに、付いて来る気いか」
「そうだけど」
「勝手にせいや・・・」
「勝手にする」
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