学校を出ると、ピカデリー・サーカスからシャフツベリー・アベニューへ入り、ソーホーへ向かった。
「そんなんして、ほんまにええんか?」
劇場街の有名な看板に何気なく目を向けていると、暫く黙っていたヒデが不意に口を開き、そう言った。
「そんなって・・・何?」
ぼんやりしていたから、何か不味いことをしたのだろうかと考えたが、どうも身に覚えがない。
するとヒデが大きなゼスチャーで、繋いだ手を反対側の人差し指でさし示す。
「せやから、こういうことしたり・・・、その・・・そうやって俺に付いて来たり」
「どうして駄目なんだよ・・・昨日だって、ずっとそうしてたじゃん。それとも、急に恥ずかしくなったの?」
「そやなくて・・・だって、あの兄ちゃん・・・」
どうやら鹿王のことを気にしているみたいだった。
「全然関係ないよ。あの人は僕が世話になっている下宿の、オーナー夫妻の息子さん」
確かに鹿王には昨夜キスされたが、僕にはどうしても、彼が本気だとは思えなかった。
やはり揶揄われただけだろう。
「ほんまにそうなんか? 嵯峨がそう思ってるだけちゃうん。何でもない奴が、なんであんな態度いきなりとってくんねんな」
「それは、何か誤解してるみたいだったから・・・」
そこまで言いかけて、少し迷う。
「誤解って何の話やねん。ただの嫉妬ちゃうんかいな」
「そういうんじゃなくて・・・」
一体何と切りだせばよいのだろうか。
いっそ、ヒデの言う通りということにして、触れずにおけば、済むことなのかもしれない・・・。
だが、それで済ませてしまうには、僕自身があまりに、与えられた情報で混乱しすぎていた。
仮にここで引き下がってしまえば、彼に対する疑念が強くなるだけだろう。
嘘を吐かれるのは、やはり嫌だった。
「ほんな、一体何やねん・・・嵯峨、俺の事なんや、うたごう(注*疑うの意)とるんとちゃうんか」
「えっ・・・?」
気が付けば、いつのまにか辺りは清華(しんか)街になっていた。
『金虎(きんこ)』のアジトがあり、『三頭会(さんとうかい)』の縄張りだ。
通りすがりの人々が、東洋人ばかりになっている。
中には昨日見かけた、綺麗な男性のように、高そうなスーツを着ている男があちこちにいた。
しかし彼らは、互いに隙のない目付きで会話をしていて、ただのビジネスマンには見えない。
DVDで鹿王と喧嘩をしていたような、チンピラ風の恰好をして、大声で辺りを威嚇しながら歩いている男も少なくなかった。
こうしてみると、ここがマフィアの根城になっているということが、だんだんと僕にもわかるような気がしてきた。
鹿王の言っていることは、おそらく正しい。
「ええ加減に吐けや。お前なんか知ってるんやろ・・・」
ヒデが勢いよく自分の手を引いて、僕の手とのつなぎ目が解けてしまう。
正面に立つヒデはゆったりとした動作で腕を組むと、表情の籠らない目で僕をじっと見下ろしてきた。
その顔は、ここにいる人々と変わりがなく、彼がヤクザだと聞かされても違和感がない。
「ヒデは・・・」
話そうとして、自分の声で喉が詰まりかける。
「何やねん」
ぶっきらぼうに促され、委縮しそうな気持ちを奮い立たせた。
唾を呑みこみ、心を決めて、ヒデと目を合わせる。
彼から逃げては駄目だ。
「ヒデは・・・・高寧(こうねい)人なの?」
彼の表情に変化はなかった・・・・肯定なのか、それとも否定なのか。
「せやったら・・・・嵯峨はどうすんねん」
逆に質問されて、頭の中が白くなる。
僕は・・・その質問には、なんと返事をするべきなのか。
ここは正直に答えるしかない。
「どうも・・・しない。それだけなら・・・」
一瞬だけ、釣り上がり気味の目が揺らいだ気がしたが、またすぐに表情が見えなくなる。
気のせい・・・?
「ほな、何があったら気い変わるねんな」
「どういう意味?」
「こんなとこまで俺に付いて来て・・・俺が冷とう当たっても、しつこうする」
「僕が・・・いると迷惑なの・・・」
「せやな、えろう迷惑やわ」
「嘘・・・だって昨日は、あんなに・・・。僕が好きだから、キスしてくれたんじゃなかったの?」
ヒデが何を考えているのか、わからなくなった。
「好きや」
「じゃあ、どうして・・・」
「質問はそれだけかいな」
「え・・・」
「ほかに何かもっと聞きたい事あるんとちゃうん」
「あるよ。・・・・ヒデは『金虎』なの?」
「そうや・・・さすがにビビッたみたいやな」
心臓が止まりそうになった。
「だったら・・・やっぱり僕に近づいたのは」
「その通りや・・・なるほど。あの兄ちゃんそれを嵯峨に教えて、気いつけろ言うてきたんか。せやけど、脇甘い兄ちゃんみたいやな。そこまでわかってるんやったら、何で嵯峨を俺に近づけんねや・・・」
「僕を・・・・誘拐する目的で近づいたって・・・本当なの?」
掌にじっとりと汗が滲んでいた。
信じたくなかった・・・ヒデが、僕を騙していただなんて。
「ほんまや。ほんで気になってるやろから教えたるわ。昨日ここらへんでおうた(注*会ったの意)、別嬪の兄ちゃんはギュハ言うて、俺らのリーダーや。ほんでこれは、俺がヘマしたからギュハにぶっ飛ばされたいうこっちゃ」
そう言いながらヒデは、自分の左目の周りを人差し指で示す。
青黒い内出血の後が、痛々しく滲んでいた。
「ヘマ・・・?」
「そうや。昨日の夜連れて来るいう約束しとって、俺がミスってもうたから・・・何しとんねん言うて、ボコボコにされたんや。目だけちゃう。背中もケツも痣だらけやわ。いとて(注*痛くての意)動けんかったから、朝から薬局行って痛みどめもろてきた(注*貰ってきたの意)。それ飲んだら、何や知らんえらい眠なってしもて、授業に遅れた・・・そういうこっちゃ」
「ちょっと待ってよ・・・それって、ヘマじゃなくて・・・」
「せやから、今日は何が何でも連れて来い言われとるんや」
「ヒデ・・・・だから、さっきあんなに・・・」
「何で俺を追いかけたりしたんや、嵯峨・・・そこまで気いついてて、なんで・・・」
突然鳩尾に強い衝撃が加わり、意識が遠のいた。
倒れると思った身体は誰かに支えられ、耳元に擽ったい息を感じる。

守ったれんで、ごめんな・・・。


そよ風のような声が、そう言ったように聞こえた。

 

「パスポートと搭乗券、ちゃんと持ってるだろうな」
「はい、大丈夫です」
「あちらの御家族へは伝えてあるが、お前からもきちんとご挨拶するんだぞ。・・・そうだ、母さんから預かり物があったんだ・・・ええと、しまったな。車の中だ・・・取りに行ってる時間もない。嵯峨、適当にどこかでお菓子でも買って・・・」
そう言いながら、財布を出しかけた父の手を止めた。
「父さん、飛田屋銘菓のザラメ煎餅『雪風』のことでしたら、機内持ち込みのこのリュックに入っていますよ」
「持っていたのか・・・それじゃあ、ちゃんとご挨拶するんだよ」
「はい。・・・それより、お疲れなのにこんなところまで送って頂いてすいません」
「どうってことないよ。・・・まあ、寝不足なのは確かだな。昨夜はちょっと夜更かししすぎた」
大きく欠伸をしながら父が言う。
「『黒い森』、昨夜最終回でしたよね」
20年以上前にシリーズで放映していた、古いサスペンスドラマである。
再放送をする度に、父が必ずチェックしている名作だ。
「なんだ、バレてたのか・・・」
「はい。・・・実は僕も部屋で見てました。澄香(すみか)、本当に綺麗ですよね」
澄香というのは主人公の名前で、政治家の恋人に裏切られ、殺人の濡れ衣を着せられて長い逃亡生活を送ることになる。
逃亡に疲れて、生まれ故郷の森へ入り、警察に包囲されていることにも気づかず、泉の畔で一時の休息を得るのだが、飾り気のない白いシャツと色褪せたジーンズという、シンプルな姿で叢に寝転び、頬杖を突きながら指先にてんとう虫を遊ばせるシーンが、とても印象深い。
直後に訪れる絶望的なドラマの終焉と対象的に、平和で美しい光景だ。
「そうだろう。・・・まったくなんで引退しちまったんだろうなあ。これからってときだったのに」
父はこの女優の大ファンである。
河本里夏(こうもと りか)は約30年前に彗星のごとく芸能界へ現れ、数々のテレビドラマや映画で主役を演じたが、この『黒い森』への出演を最後に姿を消した。
当時まだ20代前半であり、美しい盛りであっただけに、未だに根強いファンが多い。
この父のように・・・。
「ああ・・・そろそろ搭乗が始まるみたいです。それじゃあ、父さんも帰り道には気を付けてください」
「親の心配なんてしなくていいから。お前こそ、くれぐれも身体に気をつけなさい」
「はい、ありがとうございます」
「何かあったらすぐ連絡して・・・いつでも帰って来ていいから」
「大丈夫です。それに・・・姉上からの頼まれごともありますし、それだけは何としても手に入れないと」
「そうだな・・・それじゃあ、着いたら一番最初に、渡月の遣いを済ませてしまいなさい。そうすれば、いつでも帰って来れるようになるから」
冗談で言ったつもりだったが、姉の遣いはどうやら最優先事項であるという認識は、父にとっても変わらないらしかった。
父は何につけ、姉にはとことん甘い人なのである。
「そうですね・・・じゃあ、そうします。それでは行って参ります。母さんにもよろしく、お伝えください」
父に挨拶をして、僕は一人ゲートへ向かった。
真昼の空港ロビーは静けさに包まれて、優しく甘い香りが漂っていた。



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