甘い香り・・・フルーツか、それとも花の香りだろうか。
この香りを僕は知っている。
「グッチ・・・」
「よく知ってるな、ガキのくせに」
そうだ。
四角い透明なボトルに入っている、黄色い液体の香水。
姉の渡月(とげつ)が愛用している。
・・・・というか、今の声は誰だ?
重い瞼を押し上げて、目を開く。
白い天井に、装飾の多いシャンデリア、火の入っていない煉瓦造りの暖炉と、レースのカーテンが引いてある大きな窓、明るい部屋・・・・見覚えのない景色だった。
起き上がろうとして、ガシャリという金属音とともに、強く手首の辺りを上向きへ引っぱられる・・・続いて、腹部にズシンと響く強烈な痛み。
「つっ・・・たた・・・。えっ・・・?」
仰向けにどこかへ寝かされ、両腕を頭上で纏めて手錠を掛けられて、鎖でポールのようなところに繋がれていた。
ポールは曲がりくねった古めかしい階段の手摺を支える支柱であり、それは天井の高いこの部屋から、上階のテラスへ続いている。
この場所はどうやら、どこかの屋敷にある居間のような部屋だった。
視界へ僅かに入ってくる、鮮やかな生地の色使いと、弾力の利いた感触、頭の下と足元に置かれた、同じ柄のクッションから推察するに、間違いなくソファベッドへ寝かされているらしい。
「ヨンムンは空手の有段者だからな。失神するほどのパンチを受けたんだ。そりゃあ痛いだろう。無理しないほうがいいぞ」
声がする方向へ首を向けると、椅子の背もたれの少し後ろに出窓があった。
わりと奥行きのある張り出し部分の棚へ横向きに腰かけ、片膝を立てた膝頭に腕を置き、こちらを眺めている人がいる。
ボタンを二つ外した白いシャツの華奢な肢体・・・背後から外光を受けて、ゆったりと佇む眩しい姿を目にして、思わず言っていた。
「澄香(すみか)・・・?」
「ブッ・・・フフフ・・・!」
言った瞬間、天井から笑いが聞こえてくる。
首を仰向け、声のする方を見上げてみると、階段の手摺に腕を掛けて、テラスから居間を見下ろしている、男が一人いた。
こちらは光沢のある灰色のスーツに、黒いシャツ、白いネクタイ、黒いサングラス・・・・どこからどう見ても、強面の人である。
「お前には、俺が女に見えるのか」
いつのまにか出窓から降りていた白シャツ姿の男性が、窓辺から下りてゆっくりとこちらへ歩いてくる。
スラックスのポケットに手を突っ込みながら、身を乗り出すように首を伸ばして僕を見下ろすという、なんともいきがったポーズを見るかぎり、どうやら彼を怒らせたようだった。
明るい色合いの茶色い髪は、長い前髪が頬骨にふわりとかかり、くっきりとした二重瞼と、柳眉と言うに相応しい、美しく弧を描く眉、細面の顔立ち・・・・中性的な美形ではあるが、けして女ではない。
「いえ・・・すいません」
思わず謝ったが、やはりどこか似ていた。
それは、つい先ほどまで見ていた夢の中で、父、仁和(ひとかず)と交わした会話に出て来た、『黒い森』の主人公、澄香に。
つまり、澄香役を演じていた、女優の河本里夏に、非常に似ているのだ、この男性は。
「まったく、どこまでも呑気な奴だな・・・」
そう言いながら、白いシャツのポケットに入れていたサングラスで目を隠すと、向かいのソファへ腰を下ろし、横柄な態度で脚を広げながらこちらを眺めた。
彼が動くたびに、辺りへ漂う、甘い香り・・・姉と同じ、グッチの香水を、どうやら彼は愛用しているらしかった。
「なあ、ギュハ・・・約束したやんな」
心細げに聞こえて来る関西弁に、ドキリとする。
「ヒ・・・デ・・・?」
声が聞こえてきた方向・・・さきほど灰色スーツの男がいたあたりへ視線を向けると、紛れもない・・・簗英文(やな ひでふみ)が、手摺越しに『ギュハ』という男へ話しかけている。
視線の先にいたのは白シャツの男だ。
それで思い出す。
ヒデとともにソーホーを歩いていたときに、見かけた美しい男・・・それが目の前にいる、白シャツの男であり、ヒデによれば、彼こそがソーホーを根城にしている高寧人暴力組織、『金虎』のリーダーということだ。
つまり、僕はどうやらヒデに誘拐されたらしかった・・・。
ヒデに、裏切られたのだ。
「なあ、お前何歳だ?」
「答える必要ないだろ」
あれほど鹿王に警告されながら、ヒデにも突き放されながら、それでも自分から彼に近づき、この『金虎』のアジトへ連れた来られたのだ。
自分が滑稽でしかたがなかった。
自業自得であり、トラブルメーカー・・・。
他の日本人が迷惑する・・・鹿王にそこまで言われていたのに。
彼が言う通り、僕はどうしようもないお花畑野郎なのだろう。
軽蔑されてもしかたがない。
それでも・・・。
「ギュハっ・・・!」
返事がないことに苛立ったらしいヒデが、駆け足で階段を下りて来ると、ギュハに詰め寄る。
だが、間もなく別の構成員達がどこからともなく現れて、ヒデを宥めるように取り押さえた。
構成員は二人いて、一人は鷲鼻に大きな黒子がある、サングラスを掛けたスーツ姿の男。
彼には見覚えがあった。
鹿王のDVDで、妨害者のチンピラとともに京城屋へ入っていった、二人組のうちの一人だ。
そしてこの男がここにいるということは、おそらくは金虎が鹿王達の街宣活動を妨害したということなのであろう・・・。
もうひとりは若く、丸顔に八の字眉毛の、やけに人の好さそうな顔をしており、黒字にハイビスカスの花柄が入ったアロハシャツと、金髪に染めてわかりやすいリーゼントを作っている、いかにもなファッション・・・。
あのDVDに出てきたスカジャンといい、若い衆はわかりやすいチンピラ風でコーディネイトしないといけない、決まりでもあるのだろうか。
しかしヒデは普通の格好をしているので、ということはあくまでこれが個人の趣味なのか、それとも僕の知らないところではヒデもチンピラファッションでキメているのだろうか・・・。
ギュハが涼しい顔で、目の前のテーブルから赤い冊子を取り上げ、それを広げだ。
「名前はサガ・ナルタキ。本籍地東京。生年月日は・・・ほう、こいつは驚いた、俺と誕生日が同じじゃないか。もっとも、丸7歳違うがな・・・ってことは、お前17歳か。未成年も良いところだが、18ってことにして風俗店で働かせたら金になりそうだな・・・。普通は男なら、奴隷工場に連れて行かれるか、鉄砲玉に使われて終わりなんだが、お前みたいなヒョロっこいのじゃ、却って足手纏いだ。美少年好きなおっさんに、ケツ出してる方が似合いだろ」
「何、言いたいこと言ってくれるんだよ。あんただって、大してマッチョじゃないだろ! どっちかっていうと、女みたいだ・・・・ぐあぁっ!」
「ハハハハハ・・・・!」
言った瞬間に革靴の踵が、鳩尾にめり込み、体重を掛けてぎりぎりと踏みしめてきた。
ちょうどヒデに拳を入れられた場所だったが、恐らくわざとそこを狙われたのだろう。
大きな窓辺に背を凭れさせて、ゲラゲラと大声で笑っているのは、先ほどテラスから居間を見下ろしていた灰色スーツの男性。
僕が苛められている様子が可笑しいというよりも、むしろその前の発言が、どうやら笑いのツボだったらしい。
それに気付いているのか、ギュハがジロリと男性を睨みつけたのが、サングラス越しにでもわかった。
「キサン・・・それ以上邪魔をする気なら、出て行ってくれないか」
「・・・おお、こわ」
キサンと呼ばれた彼は、おどけた調子でそう言うと、笑いを引っ込めた。
イントネーションから察するに、彼もヒデと同じで関西出身のようだった。
そこまで話を聞いていて思い出す。
ここにおける全ての会話が日本語で交わされていたのだ。
『金虎』の本拠地が、日本の大阪であり、在日高寧人の組織だという、鹿王(ろくおう)の話は本当だったようだ。
同じように日本をバックボーンに持つ彼らが、日本人留学生を騙し、犯罪に巻き込んでいる・・・悲しい話だった。
「こんなことをして、警察に見つかったら、ただじゃすまないぞ」
無性に腹が立っていた。
自分がヒデに騙されたこと。
彼に裏切られたこと。
日本で育ち、日本語を話しながら、日本人留学生を誘拐し、金儲けをしている彼らの非情。
何より・・・そんなものへ巻き込まれながら、ヒデを憎みきれない自分の甘さ・・・。
「警察ね・・・まあ、見つかったらの話だな」
「僕が帰らなきゃ下宿の人が不審に思うし、警察が必ず動く」
「とりあえずお前がいなくなったことはすぐにわかるだろうが、警察が捜査するかはまた別問題だろ。こっちの警察は、被害者が有色人種だと、真面目に働かないからな」
鹿王達が動画で言っていたことだった。
彼らはやはり、そこを狙って日本人留学生をターゲットにしていたのだ。
「下宿のご主人は父の友人だから、外務省経由で大使館から英国(イギリス)政府へ働きかけがあるかもしれない。そうすれば国際問題になるぞ」」
「お前が大臣の息子だとでもいうのなら、無視できない話だが、悪いがそうは見えないな。たかが一般庶民の学生が外国で行方不明になったぐらいで、糞真面目に政府が動いてくれるなら、政府認定の日本人拉致被害者が30年以上も放置されているわけないだろ。友好国と言われている南高寧国内でもしょっちゅう日本人観光客が誘拐されているんだぞ。可哀相な民族だよな、日本人ってのは・・・現実を見ろよ坊や。世界は弱肉強食なんだよ」
「それでも・・・下宿には一連の誘拐事件へ『金虎』が関わっていることに気付いている人もいる。彼は絶対に警察へ通報するだろうし、見つかるに決まっている。僕は昨日その話をして、彼から警告を受けたばかりだ」
「それはそれは、恐ろしい話だな。ジウ、もういいから放してやれ・・・」
ギュハがそういうと、戒めを解かれて、二人の男からヒデが解放された。
「・・・んまに、・・・放れろや畜生が」
忌々しそうに身体を捩って、ヒデが二人を睨みつける。
ジウというのが、どちらかの名前なのだろう。
「ヨンムン、何とこの坊やの友人が、俺達のことを警察に通報してしまうかも知れないらしいぞ」
そう言いながらギュハは僕の腹から足を下ろすと、ヒデに歩み寄り、彼に凭れかかるようにしてそう言った。
その仕草はやけに色っぽく、間違っても危機的状況を焦っているようには見えなかった。
「ギュハ・・・」
ヒデも戸惑っている。
「そうなると、警察がここへ踏み込んでしまう前に、するべきことをやってしまった方がいいんじゃないのか、なあヨンムン・・・?」
「えと、何言うて・・・」
「嵯峨君とか言ったか・・・お前が昨日俺達の話をした下宿先の人物というのは、『Alice's Lodging』の経営者、帷子ノ辻(かたびらのつじ)夫妻の息子、帷子ノ辻鹿王・・・そうだろ」
「どうして・・・名前を」

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