いつのまに眠っていたのだろう。
ふと目が覚めると、再びベッドへ横になっていた。
テーブルの上はすっかり片付けられていて、食事の間はついていた筈のテレビもいつの間にか消されている・・・寝ている間に誰かが入ってきたのかもしれない。
キサンかギョンスンだろうか。
「えっ・・・」
シーツを見てギョッとする。
枕元に赤い染みがあり、それは指を突いた跡のように見えた。
触ってみても手に付いてこないため、はっきりとはしないが、恐らく血の痕だろう。
怪我をした場所へ触れて、血で汚れた手をベッドに突いたような・・・ひょっとしたら、自分だろうか。
なんとなく気になり、ヒデと行為をしてから一度も確認していなかった場所へ、指で触れてみる。
ぬるっとした感触があるが血は付いてこない・・・どうやら誰かが、清潔にして薬を塗ってくれたようだった。
これもキサンだろうか・・・だとしたら、次に会ったときに、ちゃんと礼を言わないといけないが、さすがに恥ずかしい。
なんとなく喉の渇きを覚えてベッドから降りると、足の向くまま部屋を出る・・・そして出てから気が付いた。
「あれ・・・鍵、かかってるんじゃなかったのかな」
廊下に小さな嵌め殺しの窓があったので外を見た。
どうやら、3〜4階程の高さに付いているらしい、この窓の真正面は、煉瓦塀の古いビルディングだった。
そして、もう少し目を遠方へ向けると、賑やかな通りの彼方に既視感を覚える景色があった。
「あの門・・・」
ビルの目の前は裏通りになっており、そこから2ブロックほど離れた場所に、赤い牌楼が見えている。
つまり、ここは清華(しんか)街のごく近所であり、ヒデの親族が経営している焼肉店へは歩いて行けるほどの距離ということだ。
だが、この建物自体はかなり大きいらしい。
廊下は静まりかえっており、嵌め殺しの窓があった場所からは、ひたすら壁が続いていた。
「ええっと・・・台所ってどこにあるんだろ。それとトイレだよなあ・・・こんなに広いんじゃ、ノックなんてしたって、近くにいなきゃ、誰も来るわけないじゃんか。あんな部屋に閉じ込められていたら、人権侵害もいいところだ」
当然のことだが、いつのまにかスマホンもどこかに消えていた。
パスポート等とともに彼らに奪われたか、あるいは最初から持って出てくるのを忘れているのだろう・・・よく考えたら、今朝から一度も端末の姿を見ていなかった。
真っ直ぐ進むと、漸く一つの扉に行き当たる。
そこへ入ると、さらに廊下が続き、幾つかの扉が左右と正面に現れた。
一番目の扉はトイレである。
台所で水を頂いたら、必ずここへ寄ってから帰ろうと決める。
その真向かいは浴室。
突き当たりの扉を開けるとさらに廊下が続いたが、どうやら少し見覚えのある場所へ出て来た。
右手に手摺が現れ、その上の天井にはシャンデリアが掛かっている・・・ということは、手摺の続きは湾曲した階段になっている筈で・・・。
「やっぱり・・・ここだ」
階段を降りながら、下にソファベッドを見つける。
ヒデに抱かれた部屋だった。
ふと、足を止めた。
カーペットに隠された配線と、その先で手摺に固定されている、小さなカメラ。
ここから、ヒデとの初体験をネットで配信されていたのだ。
胸に苦しさを覚えた瞬間、居間に続く扉の向こうから、低い声が聞こえ、身体が硬直した。
「ヒ・・・デ・・・?」
日本語でも英語でもない言語で話していた声は、間違いなくヒデのものだった。
しかし、ヒデ以外の声が聞こえてこないことに気付き、どうやら相手とは電話を通じて会話をしていることに気がつく。
それがわかった途端、足は自然とその扉の方へ近づいていた。
最初は高寧語かと思ったが、幾つか知っている単語が出て来たお陰で、どうやら清華語だと判明する。
ただし、わかったのはそこまで。
日本語に英語、そして当然高寧(こうねい)語も話せるだろうし、おまけに清華語まで流暢に話すなんて、どこまで器用な奴なのだろうか。
もっとも高寧語や清華語に関しては、いくら聞いたところで、どの程度の会話レベルなのかは僕にわかる筈もないのだが。
僅かに隙間が開いていた扉を押して、奥の様子を伺った。
扉の向こうは洗面所であり、ヒデはその床へ無造作にあぐらをかいて、携帯電話で話をしていた。
足元には何やら細かい物が散らばっており、腰を下ろしている傍には、それらを収めていたのであろう、白く四角い木の箱が、蓋を開けた状態で見えている。
「えっ・・・」
どう見てもそれは救急箱だった。
そして散らばっている小物は、薬と包帯、包帯を切ったらしい鋏、絆創膏、鎮痛剤、それを呑んだのであろう、水が半分ほど入っているグラス・・・・グラスにはベタリと、指の形で血の痕が付いていた。
恐る恐るヒデを見てみると、指先が真っ赤に汚れている・・・それに気が付いた瞬間、彼に駆け寄っていた。
「ちょ・・・なんで・・・ああ、しもたっ、鍵・・・、お、おい何すんねん、嵯峨?」
「いいから見せて・・・どうしたんだよ、こんなに怪我して・・・!?」
シャツを脱がせると、肘の下に大きな裂傷と、反対側の掌も、ナイフで切ったような傷が出来ている。
脇腹にも既に処置済みの怪我があるらしく、グルグル巻きにした包帯の上に、じんわりと血が染み出していた。
その上の隆起した胸や肩の打撲も、まだ全然治っていない。
「何でもあらへん・・・ちょう酔っ払いに絡まれただけや・・・いたたたたたた・・・っ、放せ、放せやこら・・・」
病院へ行ったほうがいいと言おうと思ったが、幸い傷は表面的なものだったようで、血はすべて、ほぼ止まり掛けていた。
「貸して! ・・・自分じゃこんな怪我、処置出来るわけないでしょ・・・本当に・・・何でそうやって嘘ばっかり吐くんだよ」
「嘘吐きは高寧人の習性や、どうにもならへん」
不貞腐れたような返事が来る。
ただの嘘ならまだいい。
だが、ヒデの嘘は僕を危険から遠ざける為に、自分を窮地へ陥れる為のものだ。
そんな嘘を見逃すわけにはいかなかった。
「ヒデの馬鹿、意地っ張り!」
「なんやと」
「僕の気持ちを知ってる癖に、なんでそうやって強がりばっかり言うんだよ。どうして本当のことを教えてくれないんだよ」
「まだそんな事言うてるんかいな・・・ほんまにどこまでお人好しやねん。俺がお前に何した思てんねん。騙されてノコノコ付いて来て、こんなとこに拉致られて、・・・おまけにレイプされて、それネット配信されとってんぞ。顔もバッチリや・・・ええ加減に気い付けや。お前は俺にええように利用されてんねんぞ。もっと怒れ」
「怒ってないわけないじゃん。散々だよもう」
「そうやそうや、その調子」
「でもレイプなんてされてないし、ネットで配信されたのも、本人了承の上だもん」
「はあ!?」
「だって、直前に教えてくれたじゃん。それからヒデとセックスしただけ。それについては怒る理由なし」
「嵯峨、どこまでアホやねん。お前あんな目えに遭わされて、何能天気なこと言うて・・・」
「能天気は仕方ない・・・鹿王さんにも言われたし、そういう性格らしいから、どうしようもないよ。けれど・・・・僕だって努力した。嘘吐かれて、騙されて、憎もうとした・・・裏切られたって知って、辛かった・・・それでも、どうやっても憎むことができなかったんだ。だって、僕はそのまえにヒデに恋しちゃったし・・・」
「何言うてんねん、あかんそんなん」
「駄目、ちゃんと聞いて。・・・僕はヒデが好き。あんな形になっちゃったけど、それでもヒデと初体験ができて、やっぱり嬉しいよ。だから、・・・・ヒデは僕を利用しただけかもしれないけど、それでもいいから・・・・お願いだから、僕の気持ちを否定はしないでほしい」
「嵯峨・・・」
「それと・・・僕のために、こんな怪我してこないで」
「クソッ・・・キサンのオッサンから聞いたんかいな。ほんま余計なことしいやで、あのジジイは・・・」
「そんな言い方しないでよ。良い人だよ、優しいし・・・、ジジイって程年とってないし。こっち終わったから、左手貸して」
右腕の包帯を巻き終わり、左の掌に薬を塗ると、ヒデはきつく顔を顰めた。
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