***第5章***
修了式の当日に掃除当番という運のなさを嘆き、おまけに式中に睡魔に襲われて、生徒指導室へ呼び出されたものの、昼前にはなんとか我が家へ到着していた。
「ただ今帰りました・・・あれ、姉上いらしたんですか?」
玄関から居間へ顔を出すと、ソファへ寝転びつつテレビを見ていたのは、母ではなく姉の渡月(とげつ)だった。
「お帰りなさい嵯峨(さが)。姉上がいると、何か不都合があるのかしら?」
「いえ、けしてそのようなことは・・・ああ、DVDを見ていらしたんですね」
テーブルには市販のスナック菓子と、炭酸飲料のボトル。
そして姉側から見てその手前に、DVDディスクのケースが置いてある。
パッケージに日本語表記はないが、『Jack the Ripper』というタイトルの一部により、切り裂きジャックものだとわかった。
見たところ映画などではなく、ドキュメンタリー構成のようだった。
評論家か作家のような人が一人ずつ出てきて、事件について何かを語っている。
「出発の支度はもう済ませたの?」
どこかで見たことのある、眼鏡を掛けた小父さんが、コナン・ドイルの言葉を借りて彼なりの持論を語り始めたとき、不意に姉から質問された。
「ああ、はい・・・スーツケースはもうあらかた作ってありますので、あとは貴重品やパスポートなどを纏めるだけです」
「そう。・・・初めての一人旅で色々と心配でしょうけど、下宿は日本人ばかりらしいから、わからないことがあったら、恥ずかしがらずに何でも聞きなさい。あたしも相談に乗るから、心配なことがあったら、時間を気にせずに電話をかけてきていいわ」
「ありがとうございます、姉上」
珍しく姉が優しいと思った。
「ただし、あんたは男よ。ちょっとやそっとのことで弱音を吐いたら、あたしはあんたを見損なうかも」
「はい・・・そうならないように精進します」
「まあ、気を楽にもつといいわ。倫敦(ロンドン)は楽しいところよ。学校に行けば、あんたと同年代の仲間が沢山いる。外国人の友達だって出来るかもしれない。これは必ず、あんたにとってかけがえのない財産になる筈。・・・せいぜい楽しんでくることね」
「ありがとうございます」
「話はそれだけよ。あたしも週明けから布哇(ハワイ)だから、今のうちにこのDVDを見てしまいたいの。用がないなら、邪魔をしないでくれる?」
「姉上・・・」
「邪魔をするつもりね。何のかしら」
「・・・そんなつもりはないのですが、僕もこのDVDを一緒に見てもいいですか? リスニングの勉強になりそうなので・・・邪魔にならないように、気をつけますから」
「仕方ないわね。どうしてもというなら、かまわないわ。そこにいなさい」
「感謝します」
それから僕は姉と一緒に、切り裂きジャックのDVDを最後まで鑑賞した。
DVDは45分程度の内容であり、5人ほどの作家や評論家といった肩書を持つ、切り裂きジャック事件の研究家達が、次々に彼らなりの意見を述べて行く構成であった。
邪魔にならないという約束をしていたために、英語の練習がてら、わからなくても黙って見ているつもりでいたが、見始めて2分もたたないうちに、姉が色々と解説をしてくれた。お陰で、内容はほぼパーフェクトに理解ができた。
「コナン・ドイルは事件当時の小説家だけれど、彼の推理はなかなか面白いのよ。犯人は女性、もしくは女装をしていた男性だったから、娼婦たちに警戒をさせることなく近づくことができたというの」
僕が部屋へ入って来たとき、眼鏡の小父さんがコナン・ドイルの名前を引用していたのは、この推理のためだと判明した。
「姉上は誰が犯人だったと思われているんですか?」
「最有力候補と言われているのは、弁護士兼男子校教師だったモンタギュー・J・ドゥルイット、それに同じく弁護士兼詩人のジェイムズ・ケネス・スティーヴン・・・彼はあの、ヴァージニア・ウルフの従兄にあたる人物よ、父親は法律の大家。そしてそのスティーヴンが家庭教師をしていた、女王の孫であるエディ王子ことクラレンス公に、王子の祖母、ヴィクトリア女王の主治医、ウィリアム・ガル。木綿商人のジェイムズ・メイブリック、俳優のリチャード・マンスフィールド、作家のルイス・キャロル、ウィリアム・グラッドストーン首相に、ランドルフ・チャーチル内務相、最後の被害者、メアリー・ケリーの情夫であるジョウゼフ・バーネット、3人目の被害者、エリザベス・ストライドの情夫であるマイケル・キドニー、あるいはフリーメイソン・・・」
「ちょっと待って下さい・・・それじゃあ、まるで誰だかわからない・・・というか、誰でもかれでも、適当に名前を上げているように聞こえてしまいます」
「わかってないわね、嵯峨・・・そこがこの事件の楽しみ方なのよ」
「どういう意味でしょうか」
「誰でもかれでも、適当に名前をあげているようにしか聞こえない・・・けれど、ここには一貫した法則がちゃんとある」
「全員男ということでしょうか」
そのぐらいしか、共通点が思い当たらなかった。
「フリーメイソンには、かつて女性会員がいたそうよ。愛蘭土(アイルランド)人女性だそうで、フリーメイソンの集会を覗き見してしまったことから、秘密保持のためにその場で入会させられたらしいわ・・・いつの話かは知らないけれどね」
「そうだったんですか・・・なんだか怖そうな話ですね」
姉が最後にフリーメイソンという集団名言っていたことを、うっかり忘れて、前の発言をしたのだが、どうやらフリーメイソンは、基本的に男の会員しかいないということを、偶然にも、ここで僕は初めて知った。
とはいえ、フリーメイソンが何なのかが、そもそもよくわからないのだが・・・。
「それに、切り裂きジャックは女かもしれないという、コナン・ドイルのような主張から、『切り裂きジル』という女性犯人説も一応あるわ。まあ、体力的に無理でしょうけど」
「そうだったんですか・・・。それで、結局姉上の仰る一貫した法則というのは、何でしょう」
「全員が同じ時代に生きていたってこと」
「ああ、なるほど」
確かにそれだけは間違いない。
しかし、それのどこが楽しいのだろうか。
「切り裂きジャック事件を追究するということは、19世紀末英国(イギリス)の生々しい姿を空想するということ・・・知ることも出来ないような真犯人など、本当はどうでもいいのよ」
そう言いながら、姉の渡月がつんと澄ました顔で長い髪を掻きあげた。
8畳の居間には、開け放した窓辺で薄いカーテンが静かに揺れている。
夏の柔らかな風にのって、グッチの甘い香水が微かに香ってきた。
02
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