「グッチ・・・」
花か果実のような、甘い香り・・・それは姉の渡月が愛用している香水の匂いだ。
「お前はよほどこの香水が好きなのか?」
冷ややかな声とともに、強く前髪を引っ張られ、無理矢理僕は起こされた。
「ギュハ・・・」
いつのまにか僕が監禁され、就寝している部屋には明かりが点いており、彼が中に入っていた。
綺麗な二重瞼と褐色の瞳、柳眉と呼ぶに相応しい、美しい弧を描く眉、頬骨に掛かる、長めの前髪・・・白いシャツを着たこの美しい青年は、高寧(こうねい)人暴力組織『金虎(きんこ)』のリーダー、シ・ギュハ。
偶然にも姉と同じグッチの香水を愛用している男・・・だが、中性的で美しい外見とは裏腹に、僕の誘拐を友人であり、思い人であるヒデに命じた非情な男。
そしてヒデに僕を抱かせ、初めての性交で傷付いた僕を、手当てしてくれたのも彼だという・・・矛盾している。
ギュハは掴んでいた髪を放し、片膝を突いて半身を乗り出していたベッドから離れると、不気味にほくそ笑んだ。
後ろには男が二人立っていが、彼らに会うのは初めてだ。
いや、見覚えがある気もするが、ここで会うのは初めてだと思う。
・・・どこで会ったのだろうと考えるが、よく思い出せない。
「じゃあ、あとは任せますから、好きなようにやってください」
ギュハは言った・・・恐らく一緒にいる二人に対してだろう。
ここにいる以上は彼らも金虎か、あるいは七海派(しちかいは)なのだろうが、よく知らない彼らを前になんとなく居心地の悪さを覚えて、ベッドへ身を起こす。
好きなように・・・何をするというのか。
河本里夏(こうもと りか)の血を濃く引いているらしいギュハの整った顔立ちは、どんな表情をしていても美しいが、僕に対してけして好意的な顔は見せてくれていない。
おそらく、あまり好かれてはいないのだと思う。
いや・・・そもそもが、拉致をされ、監禁をされている立場で、犯行グループのリーダーに好意を求めること自体愚かなのだ。
しかし、恋をした相手が、僕に直接手を下した犯罪行為の犯人で、誘拐されて尚、憎むことができない相手であり、ここにはキサンのように、温かみのある男もいる・・・そんな環境で、僕自身が今ひとつ自分の置かれた立場というものを、正しく理解できないでいるのだ。
だからこそつい、ギュハともいずれはわかりあえる筈だと、期待していしまいそうになる。
それが自分の甘さなのだと、知ってはいるのだが。
無防備な寝入りばなを無理矢理起こされ、自分が今いる立場がどれほど不安定な状況なのかを、徐々に理解する。
部屋にはTシャツと下着姿でベッドに座る僕と、僕にけして好意を見せないギュハ、そして彼が連れて来た見知らぬ男たち・・・。
屋敷には、果たして他に人がいるのかどうかもわからない。
そもそも僕は囚われの身であり・・・ヒデはいったいどこにいるのだろうか。
たとえば、ここで大声を出したとして、助かる可能性は?
考えて、馬鹿馬鹿しい期待だと、自分で即座に否定する。
そもそもそれが可能であるなら、この部屋に僕を監禁したりはしないだろう。
一応窓もあるが、清華(しんか)街の近くだというのに、雑踏も車のエンジンも聞こえてこない・・・つまり、部屋から音が漏れない構造になっているか、もしくはこの窓が通りから離れているかのどちらかだ。
恐らくここで暴行されたり、あるいは殺されそうになって悲鳴をあげても、誰も助けにはこないだろう。
銃で撃たれても、あるいは気づかれないかもしれない。
僕はつくづく馬鹿だ・・・一体彼らに何を期待していたのだろうか。
髪を金髪に染めた男がニヤリと笑う。
「こりゃまた、とびきりの別嬪だな」
スキンヘッドの男が、ベッドの反対側へ回って来ようとしていた。
「本当に頂いちまっていいのか?」
「ええ、煮るなり焼くなりお好きになさってください」
何を・・・とは言っていないが、愚問だろう。
僕の事だ。
ギュハは僕の事を彼らに売ろうとしている・・・どこへ連れて行かれるのかはわからないが、おそらくヒデとも会えなくなるだろう。
「日本人はいい値段が付くからな・・・それもこれぐらい美少年になると、美味しい商売ができそうだ。そういやギュハ、あんたも半分日本人だったな。なんてったっけ、ほら女優の・・・」
「それがどうかしましたか?」
最後まで言わせることなく、冷たくギュハが問い返す。
母親の事を言われるのは、とことんまで嫌なようだ。
ヒデが言っていた通りである。
「いや、あんたも売りに出したら、さぞかし高値で競り合いになるだろうと思ってさ・・・そうだ、河本里夏だ。『黒い森』の澄香(すみか)は本当に名演技だったな。見てたか、ジンソン?」
「そんなことをすれば、殺しますよ。・・・それと、二度と母の話はしないと約束してください。でないと、清華街で商売できなくなるように、ミンジェにお願いすることになるかもしれません」
スキンヘッドの男は、どうやらジンソンと言う名前であり、二人はミンジェの手下で三頭会のメンバーらしかった。
そしてギュハの話で、漸く思い出す。
そういえばこの二人は、清華街で屋台ラーメンを売っていた連中だ。
鹿王(ろくおう)のDVDで見た屋台にも、映っていたかもしれない・・・白衣を着ていないため、わからなかったのだろう。
・・・いや、それ以外にもどこかで会っているような気がする。
地下鉄・・・?
よく思い出せない。
清華街という場所は、一見普通の商人や通行人のように見えて、実はこういう暴力組織の構成員が沢山いるのだろうか。
鹿王があれほど警告してきた理由が、今になってつくづく身に沁みた・・・だが、恐らく時すでに遅し・・・そう僕には思えた。
「おいおい、それは洒落にならないな。ったく別嬪なのに、怖い男だよあんたは・・・その強気なところがたまらないって野郎は沢山いるんだろうけどさ。そういやギュハ、ミンジェがまたデートに誘いたいって言ってたぞ」
ジンソンという男がギュハに言った。
ギュハがあからさまに顔を顰めて舌打ちをする。
なんとなくこの二人は、ギュハが嫌がるのをわかっていて、わざと揶揄っているような気がしてきた。
「ドーヴァーに沈めていいなら、付き合ってやってもいいと伝えてください」
「相変わらずつれない返事だな・・・ミンジェはそういうところに惚れたんだろうが、Mじゃないから俺の手には負えそうにない」
「ソンイルを殺された恨みを忘れてはいないだけですよ」
低い声でギュハがそう言った。
ソンイル・・・どこかで聞いたことがある名前だったが、よく思い出せなかった。
会話を聞くかぎり、ミンジェという男がギュハの仲間であるソンイルという人物を殺した・・・そういうことらしい。
どうやらミンジェとギュハは、純粋な信頼関係にあるというわけでもないようだった。
「だから、あれはあんたを狙った刺客をミンジェが始末しただけなんだがなあ・・・まあ、どっちにしろ俺は鬼畜な美人よりも、この坊やみたいに怯えた目をしてる美少年を、泣かせるほうが好みだ。いや、まったくたまんねえなあ」
金髪の男が手を伸ばし、シーツを剥ごうとしてきたので、慌てて引っ張った。
そのために注意が彼へ集中してしまい、隙だらけだった反対側から肩を押さえられて、再びベッドに沈められる。
圧し掛かるように見下ろしてきた、スキンヘッドの顔が、ギラついた目をして僕を見た。
呆れるような苦笑が、彼らの後ろから聞こえてくる。
「そんな戯言信じるわけがないでしょう、ついでにこちらも貴方がたのような下賤な男たちは願い下げですが・・・なんでしたら、ここで少し味見なさって行きますか? ミンジェの手に渡ってからでは、そうもいかないでしょう」
ギュハが二人を嗾けるようなことを言った。
ミンジェに対して影響力があるらしいギュハが二人を窘めてくれれば、あるいは辱められるようなこともなかったのかも知れないが、それは虚しい期待だったようだ。
状況はとことん悪い方向へ向かっているらしい。
「いや・・・だ・・・やめてよ・・・ねえ、ギュハ助けて!」
情けを乞う相手を間違えていることは充分承知していたが、或いは僕の手当をしてくれた彼ならばという一縷の望みに賭けた。
「お前の望み通りにしてやろうというのに、何を言っているんだ? ・・・男を誑かすのが好きなんだろうに」
ギュハが冷たくそう言った。
僕は彼を勘違いしていたらしい。
なぜ、助けてくれるかもしれないなどと、愚かにも期待をしたのだろうか。
「何の話だ・・・! クソッ、放せよ・・・退けよっ」
金髪の男が無理矢理シーツを引っ張り、繊維が裂ける音がした。
ベッドへ上がったスキンヘッドの男は、僕の上に跨って首筋に息を吹きかけて来る。
「いやらしい、痕が一杯だなあ・・・・本当はギュハの言う通り、男とこういうことするの好きなんじゃないのか?」
「誰が、お前なんかとっ・・・嫌だ、やめろっ、そこは・・・やめてくれっ!」
鹿王に吸いつかれ、ヒデに噛まれた場所に、今度はジンソンが舌を這わせてきた。
全身が嫌悪に包まれる。
「ははは、嫌われたもんだなジンソン。それじゃあ坊や、先に俺と良いことするか? 俺は紳士だから優しくしてやるぜ」
「おい、チャンジン俺が終わるまで待てよ。てめえの汚いケツなんて見せられたら、それだけで萎えちまうだろうが」
「それはこっちのセリフだ、ジンソン。この坊やはお前にナメナメされるのは、嫌なんだとよ。諦めろって」
金髪の男、チャンジンとジンソンがベッドを挟んで言い合いを始め、何気なくドアへ視線を送ると、ギュハが部屋から出て行こうとしていた。
「うるせえよ、この坊やは洗練された俺のナメナメに堪らず、身もだえしただけの話だろ。嫌がられたわけじゃねえよ」
「えっ・・・?」
ジンソンはそう言いながら身を起こすと、何故か窓へ向かう。

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