二日ぶりに土を踏みしめ、急いで辺りを見回した。
夜空の下に左側へ黒々とした木立を見つけて、一目散にそちらへ走る。
そして駈け出した矢先に、懐かしい声を耳にした。
「嵯峨、こっちだ!」
月明かりに浮かんだ白皙と、すらりとした長身の体躯。
彼が・・・クイーン・・・!?
「どうして、何故鹿王(ろくおう)さんが・・・? クイーンってどういうこと・・?」
「こっちも言いたい事は山ほどあるんだが、話はあとだ。とにかく走れ!」
鹿王は数歩進み出て僕の手首を握りしめると、今しがたやって来た進行方向へ向けて走り出した。
林の中はけもの道すらも作られておらず、剥き出しの腕と足を、枝や凹凸の激しい木の根がこれでもかと傷つけてきた。
裸足で走るのは限界があったが、気力でなんとかするしかなかった。
これ以上、誰かに迷惑をかけるわけにはいかない。
「あの・・・ごめんなさい」
どうしても一言詫びたくて、無言の横顔へ息を切らせながら告げた。
すると。
「無事でよかった」
ポツリとそんな言葉が返ってきた。
木立の向こう側に、街灯らしき明かりが見えてくる。
その手前に、敷地の境界を示しているらしい、背の高い鉄柵と、上に張り巡らした有刺鉄線。
どうやら屋敷の外が近いようだ。
「クソッ!」
ふと、そんな悪態をつきながら鹿王が速度を落とし、間もなく足を止める。
どうしたのだろうかと思う間もなく、周りから銃を構えた男たちが現れた。
「そんな・・・」
どうやら囲まれたらしい。
「随分と面白い真似をしてくれたもんだな・・・聞きたくもないラーメン屋の喘ぎ声なんて延々と聞かされて、気が狂うかと思ったぞ」
先回りされていたらしく、ギュハがゆっくりとした足取りで木立の向こうから歩いて来る。
街灯を背に、大きめの白いシャツを羽織った彼は、暗い景色のなかで一際白く浮かび上がって見えていた。
「鹿王さん・・・?」
だが隣の男が僕の一歩前へ進み出てしまい、ギュハの姿が完全に見えなくなった。
「へえ・・・ナイト様ってわけか。鹿王とか言ったか・・・随分お目出度い男のようだな。その少年が、ここで俺の弟分に何をされたと思う。しかも自分をレイプしたヨンムンに、すっかり逆上せたと思ったら、今度は七海派(しちかいは)の幹部に媚を売って誑かそうとしたんだぜ・・・バージンみたいな顔をして、随分とあそこの緩い坊やらしい」
「黙れっ・・・、放せ、畜生っ!」
「落ち付け、嵯峨! 相手は銃を持ってるんだぞ」
なぜ、ここまで酷い仕打ちを受けないといけないのか、わからなかった。
もちろん事件に関わった責任が、僕にもあることはわかっているし、鹿王や三頭会(さんとうかい)の二人には謝りきれないほどの迷惑をかけたと承知している。
だが、あくまで僕は犯罪被害者の筈であり、直接手を下したのはヒデだが、その指示をした主犯は、このギュハである。
僕は金虎(きんこ)に誘拐され、監禁され、・・・相手がヒデだから最終的に許したとはいえ、性行為を強要されて、それを不特定多数に映像配信され、人格権を大いに侵害された。
そのうえ、彼になぜここまで言葉で傷つけられないといけないのだ。
「あんたが怪我の手当をしてくれたって聞いたときには、感謝もした・・・だけど、どうしてそこまで言われないといけない!?」
「嵯峨っ!」
「ヒデのことだって、怒っていないわけじゃないし、誘拐されたことも傷付いた。何より、嘘をつかれたことに、一番腹が立ったよ。・・・それでも、彼を憎めないんだから、どうしようもないだろ。だって・・・好きになってしまったんだから。それが淫売だの、男好きだのに見えるんならしかたがないよ・・・けど、そのことで鹿王さんを愚弄するのはやめてくれ。あんたには滑稽でしかないだろうけど、彼は身を投げ出して僕を助けようとしてくれているんだ。それに何を誤解しているのかしらないけど、僕はキサンさんを誑かしたり、媚を売った覚えなんてない。言いがかりだ」
「・・・聞いたか、鹿王君。お前がいくら頑張ったところで、この坊やはヨンムンに夢中なんだってさ。命懸けで救出に来たっていうのに、取り越し苦労だったな」
「それがどうした。・・・それより、あんたこそ詰まらない嫉妬から、嵯峨に絡むのはやめにしないか。見苦しすぎて哀れになる」
「鹿王さん、何言って・・・」
依然として僕の前から動こうとしない鹿王が、どういうわけかギュハにそんなことを言った。
「何の話だ」
「要するにあんたは、一向に振り向いてくれない七海派の幹部、コ・キサンが、この馬鹿にチョッカイ出したのが、気に入らないってだけなんだろう?」
「・・・どういう意味?」
「チャンジンとジンソンが呆れていたぞ。ミンジェも大概しつこいが、あんたも相当だって」
「お前一体、何者なんだ・・・」
「下宿屋の息子だよ」
その時、不意に目の前の影が動いたと思うと、あっという間に鹿王が高く脚を蹴り上げ、ギュハが拳銃を取り落としていた。
それを鹿王が拾ってギュハを拘束し、こめかみに銃口を突き付け、金虎の構成員達を威嚇した。
鮮やかな動きだった。
いつだったか、彼と喧嘩になったとき、あっという間にベッドへ沈められたことを思い出す。
「くっ・・・」
美しいギュハの表情が、苦々しげに歪んでいた。
華奢でしなやかな彼の身体は、大柄な鹿王にあっさりと包み込まれて、頼りないようにさえ見えてくる。
「少しでも動いたら、お前らのリーダーがどうなるか、わかっているな・・・行け、嵯峨」
「でも・・・」
「早く行け! 俺もすぐに行く・・・!」
「わかった・・・」
後ろ髪を引かれる思いで、彼らに背を向け、走り出した。
或いはまだどこかに隠れているかもしれないとさえ思った、金虎、あるいは三頭会の連中と会う事はなく、間もなく林の外に抜け出てしまう。
そのとき後ろで銃声が聞こえ、足を止めて耳を澄ませた。
「まさか、鹿王さんが・・・」
そう考えた矢先、林の中から土を蹴って走って来る足音と、見慣れた長身を見つけてホッとした。
「馬鹿野郎、何をしている・・・走れ!」
「あ、うん・・・」
そして長い鉄柵に沿って門を探しながら走りつつ、何気なく木立の切れ目を見つけて振り返る。
そこには肩から血を流して倒れている白いシャツの華奢な背中と、金虎の構成員らしき男たちに取り終えさえられ、後ろ手に拘束されているラフな姿をした青年が跪き項垂れていた。
短く刈り込んだ黒髪と、端正な顔立ち、見覚えのあるシャツの柄と、脇腹に滲みでた赤い染みに息を呑む。
「ヒデ・・・?」
思わず足を止めそうになったが、その瞬間に強く手首を掴まれ、直後に引っ張られていた。
「何をしている、走るんだっ!」
「でも・・・ヒデが・・・」
「いい加減にしろ! 彼の決意まで無駄にする気か!?」
「えっ・・・」
その後は鹿王に手を引かれるまま、屋敷の門まで走り、割と近くに止めてあった車へ押し込められた。
恐らく鹿王のものだろう。
運転席へ彼が入って来ると、すぐにエンジンをかけて発進する。
擦れ違いざまに何台ものパトカーが屋敷へ入って行った。
事前に鹿王が連絡をしていたのかもしれないし、銃声で通報が入ったのかもしれないが、どちらでも同じことだろう。
僕は自分が見た光景について考える。
ギュハが血を流して倒れ、ヒデが仲間に取り押さえられていた。
そして鹿王は、ヒデが僕のために決意した結果だという意味のことを言っていた。
考えられる真相はひとつしかない。
ヒデがギュハを撃ったということだ。
仲間であり、ヒデを迎え入れた人であり、キサンに言わせると、ヒデが忠誠を誓った人である。
僕の為に、彼はそんな人物に対して牙を向いたのだ。
裏切りと仲間殺しはご法度だとキサンは言った・・・ヒデはけして、無事ではすまされない。
「どうしよう・・・僕の、せいだ・・・」
「お人好しも、休み休み言え・・・馬鹿が」
見覚えのある赤門が近づいてきたと思うと、車は右に指示を出し、少し速度を落としつつ進路を中央に取って右折していった。
景色から東洋っぽさがどんどんと薄れていき、ミュージカルの看板などが見えて来る・・・どうやらシャフツベリー・アベニューをピカデリー方面へ向けて走っているようだった。
車は途中で脇道へ入り、何度か右折を重ねて見慣れた広場へ出て来ると、そこで左へ寄せて、鹿王は一端エンジンを切った。
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