少し前方には、ライトアップされたエロス像が見えている。
ピカデリー・サーカス・・・僕とヒデの学校のすぐ近くだった。
不意に鹿王が身を乗り出して後部座席に何かを探し始めたかと思うと、間もなく前へ向き直り、そのまま身を屈める。
手にはタオルを持っていた。
「えっ・・・あ、あの・・・ちょっと・・・」
「足貸せ・・・そのままじゃ、気持ち悪いだろ?」
僕の右足を持ちあげると、鹿王は足の裏に付いた泥を拭ってくれた。
とても優しい手付きだ。
「ありがとうございます・・・」
「どこか痛いところはないか? あまりゆっくりはしていられないが、怪我をしているようなら、ちゃんと洗って絆創膏ぐらい買いに行ってやる。ここからうちまでは、まだだいぶ距離があるから・・・。どうしても痛いようなら、まあ適当にどこかで休憩してやらんこともない」
言葉の最後で、なぜか視線が逸らされる。
「平気です」
少し違和感を覚えたが、僕にはその気持ちだけで充分だと思ったので、そうとだけ答えた。
これ以上鹿王に迷惑はかけられない。
「そうか・・・次はそっちだ」
そう告げる鹿王の表情は、少しだけ寂しそうに見えた。
事務的に指示された言葉にしたがって、僕が反対側の脚を伸ばすと、柔らかい布地に肌が包まれる。
何度かタオルを畳み直しながら、汚れた僕の足を彼は丁寧に拭ってくれた。
不意に助手席側のガラスがノックされて、僕はギョッとする。
すぐに鹿王が手を伸ばしてウィンドウを下げようとした。
同時に膝へ何かが置かれて、視線をおろすと、僕の足を拭いていたタオルが、ちょうど腿の辺りを隠すように広げて掛けられている。
鹿王がしたようだが、なぜだ・・・?
「お邪魔でしたか?」
声に聞き覚えがあり、外にいる人物の顔をよく見る。
「あ・・・ジンソンさん」
古めかしい石造りのビルディングを背景に、にこやかな東洋人の男が、やや腰を屈めて車内を覗きこんでいた。
スキンヘッドの頭皮がオレンジ色に照らされており、どうやら近くに街灯があることがわかった。
「可愛い坊やに名前を覚えてもらえているなんて、嬉しいねえ。それだけでも、お助けした甲斐があるってもんだ」
「だったら、報酬は名誉ってことでいいな」
そう言うと、鹿王は本当にエンジンを掛けて出て行こうとした。
「ああ、ちょっと待って下さいよ。そりゃないでしょう、クイーン?」
「約束は約束ですよ、守ってくれなきゃこっちにも考えがあります。ルナにあることないこと吹きこんで、クイーンに眠れない夜をプレゼントすることになりますよ!?」
必死の形相で車窓から覗きこんでくるジンソンの隣へ、相棒の身体を押しのけるようにして金髪の東洋人が顔を並べてきた。
彼らの勢いに気圧され、僕は鹿王の方へ凭れるような恰好になる。
脚を動かしたらしく、タオルがフロアへはらりと落ちたが、すかさず鹿王がそれを拾い上げ、また僕の膝へ戻してきた。
どうやら二人の視線から、下着一枚の下肢を隠してくれようとしているらしい。
僕自身は今さら、気にならなかったのだが、その気遣いはやはり嬉しいものだ。
「あることないことっていうのは、たとえばどういうことだ?」
鹿王は続いて、サンバイザーの上から、挟んであった何かを取り出した。
大判の封筒のようである。
「そりゃあもう、顔写真から本名から、プライベートのことを何から何まで、思わせぶりな口説き文句を添えて・・・」
「まあ別に構わんけどな。どうやらルナは俺を女だと思っているようだし、正体を知れば却って、メール攻勢の手を緩めてくれるかもしれん」
「あれまあ・・・ルナはクイーンを若い男だと見抜いてアプローチしていたわけじゃなかったんすか・・・まさかレズビアンだったとはねぇ。ところでクイーンその封筒はもしや・・・」
鹿王が手にしている茶色い包みを見て、ジンソンの目がキラリと輝いた。
声もどこか上擦っているように聞こえる。
「ああ・・・感謝する」
僕の目の前に茶封筒が差し出され、ジンソンがすかさずそれを受け取り、中を改める。
「約束のブツ、確かに頂戴しましたよ。ところでクイーン、あっちからダブルデッカーが近づいてるんで、早く行った方がいいですよ。っていうか、駄目じゃないですかバスレーンに停めちゃ」
「すぐ出て行くつもりだったのに、お前らがそうさせてくれなかったんだ」
「いや、そもそも一般車両は侵入しちゃいけないでしょ。見つかったら罰金80ポンドですよ」
「わかってるから、早く離れてくれ。車が出せない」
ジンソンとチャンジンが歩道へ戻るや否や、右側へ指示を出しながら鹿王が車を発進させようとした。
「坊やもルナによろしくな・・・戻ったら、すぐに連絡して安心させてやんだぞ」
「えっ・・・?」
思わずジンソンを振り返る。
ゆっくりと離れてゆく歩道に立っていた二人の男は、優しい笑顔で僕らに手を振っているだけだった。
すぐに連絡して安心させてやんだぞ・・・どういうことだろう。
それではまるで、姉が今回の事件を知っているような言い方ではないか。
すっきりとしない気持ちを抱えたまま、鹿王に言われてウィンドウを上げると、次第に車内へ冷房が利いてきた。
隣へ車線を変更しながら直進用の流れに車を入れて、コヴェントリー・ストリートへ進む。
何となく見覚えのある景色が途中まで続き、右折を繰り返したのちに、車は漸く知らない道を直進していった。
やがて眼前にテムズ川が見える。
最初はどこへ行こうとしているのかと思ったが、まっすぐ下宿を目指しているだけだということが、漸く僕にも理解できた。
どうやら倫敦市内は一方通行が多いために、そういうルートになってしまうらしい。
「あの、さっきは一体、ジンソンさん達へ何を渡していたんですか?」
「『Lapsus Calami』・・・お前がマーケットで買った本だ」
「あ、なんだ・・・そんな物・・・」
ヤクザ二人に何を渡しているのかと思えば、ただの本だったので拍子抜けだった。
危ない売買に関わっているのかと思って、ハラハラした。
「怒らないのか? たぶん、お前があの姉貴から頼まれて買った希少本だろ。勝手に持ち出した上に、こんなことに使って悪かった・・・でも、さすがに俺一人ではどうにもならなかったし、あの二人の協力を得るには、あれぐらいしか手段がなかった。少々の金で動いてくれるような連中ではないしな」
「怒るだなんて・・・僕こそ、本当にごめんなさい。でも、どうしてあんな本でヤクザが協力を? それにその・・・彼らはなぜ、鹿王さんのことをクイーンだと・・・。その、まさか・・・姉が言っていたクイーンって・・・」
なんとなく、僕にも謎が解けて来た気がしていた。
クイーン、切り裂きジャック、スティーヴンの著書・・・。
その渾名から僕は勝手に、クイーンを女性だろうと思っていたが、そうではないとしたら。
「『Lapsus Calami』初版本の一ページ目に、メッセージが書いてあったのを覚えているか?」
「えっ・・・」
僕の問いかけは無視された。
メッセージ・・・そういえば、何か書いてあった気がする。
「To MJD・・・MJDさんへ、でしたっけ・・・」
マーケットからの帰り、電車の中で広げたときに一度見たきりだったが、確かに本にはそのように書いてあった。
誰から誰に当てられてのかもわからないが、インクの擦れ具合から、そのメッセージもまた、相当古いものだと理解できた。
「ジェイムズ・ケネス・スティーヴンの友人だと思われる一人に、モンタギュー・ジョン・ドゥルイットという人物がいる」
「ドゥルイット・・・!?」
「ほう、反応を見る限りそれが誰だか知っているようだな。さすがにルナの弟だ」
「知っているってほどじゃないけど、日本を出る直前に、たまたま姉とジャック関連のDVDを見ていて、そのときに容疑者の一人にそのドゥルイットという人物がいることを、教えてもらったものだから・・・っていうか、ルナってひょっとして姉のことですか?」
さきほど、鹿王がジンソンたちと、ルナがどうのこうのと言って気がする。
なんと言っていたのかはよく思い出せず、あまり好ましい会話の流れでもなかった筈だが、・・・まあ、敢えて思い返すほどの内容でもないだろう。
そしてドゥルイットの名前はDVD以外でも、最近よく耳にしていた筈だった。
どこで聞いたのか・・・それはどうにも曖昧なのだが。
「確かに元シティ警察のマクノートン説を始めとして、ドゥルイット犯人説を主張する研究者は多いな。最後の被害者が死んでから間もなく、本人がコートのポケットに石を詰めて、川で入水自殺していることや、その直前に同性愛がらみの事件で男子校の教職を解かれていることなど、彼のプライバシーは何かと人々の想像を掻きたてる。おまけに写真を見ると、なかなか整った顔立ちだ・・・それだけでも魅力的な人物だよ」
「そうなんですか・・・」
初めて知るドゥルイットの素性なのに、僕にはなぜか他人事のようには感じられなかった。
なぜ、こんなに彼へ親近感を覚えてしまうのだろうか。
同性愛、男子校の先生、失業、そして入水自殺・・・まるで疑似体験でもしていたように、それらの光景がまざまざと脳裏に浮かびあがってくる。
「そうだな、やや女性的で上品な顔立ちの・・・なんとなくお前に似ているかもな」
「え・・・、ふと顔を上げると、ルームミラー越しに鹿王と目が合った。
鋭い目つきのモスグリーンの瞳と、波打つ褐色の髪・・・荒々しい鷲。
「ジェム・・・」
「ほう・・・そのニックネームも知っているとは、恐れ入る。ジェイムズ・”ジェム”・ケネス・スティーヴン・・・あの本の作者は、確かに近親者や親しい友人たちから、そう呼ばれていたらしい」
「なんですって・・・?」
スティーヴンのニックネームが、ジェム・・・。
「ああ・・・なんだ、知って言ったわけじゃなかったのか。従妹のヴァージニア・ウルフもそう呼んでいたらしいぞ。名前ぐらいは知っているだろう、『ダロウェイ夫人』とか『オーランドー』を書いた・・・」
「すいません、ドゥルイットはモンティと呼ばれていたりしましたか?」
ウルフについて説明しようとしてくれている、鹿王の言葉を遮ってしまった。
さすがにそれは、僕でも知っている。
彼女の名前だけだが・・・。
「さあなあ・・・、そういう記録は俺が知る限り見たことも聞いたこともないが。まあ、モンタギューという名前だから、モンテとかモンティと呼ばれていた可能性は高いだろう。・・・そのモンティのイニシャルであるMJDに、あの本は捧げられていた。筆跡もスティーヴンのものに見えなくもないんだから、そりゃあ興味が駆られる。二人は僅かな期間ではあるが、弁護士としてインナー・テンプルに出入りしていた時期が重なっているからな。・・・といっても、当時の弁護士はイースト・エンドと同じく人口飽和状態で、とても弁護士業の一本で食べていける状況ではなかった。ということはインナー・テンプルも同じく人口過密だったわけで、接触があった可能性が高いというほどではない。そもそもスティーヴンはケンブリッジのフェローでもあったわけだから、ロンドンどころか日頃はそっちにいただろうだからね。あの本だって、『Lapsus Calami』の初版であることは間違いないが、誰かがスティーヴンの筆跡を真似て、思わせぶりな悪戯書きをした・・・そんなところが真相だろうと俺は思っているんだが。・・・まあ、そんなものであれだけ喜んでくれる連中がいるんだ。ルナには悪いが、それでお前が助けられるなら、俺は・・・」
人口過密のイースト・エンド、人口過密のインナー・テンプル・・・キングズ・ベンチ・ウォーク9番地にある、小さな彼の部屋。
二人は確かに出会い、逢瀬を重ねていた・・・。
「弁護士仲間でもある友人には、彼に思いを寄せる美しい従妹いた・・・」
そして、荒々しい鷲を思わせる彼に恋をして、美しいステラに嫉妬を覚えた。
「嵯峨、何言ってるんだお前・・・」
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