**エピローグ1** スーツケースの蓋を閉めてロックをしていると、開け放したままの扉をノックされた。
嵯峨へ
これをあんたはちゃんと読んでいるのかしら?
追伸。 姉上より
二日ぶりに手にしたスマホンを抱きしめて、僕は泣いた。
RE:ご心配おかけしました。
会議中に携帯を鳴らすなんて、どういうつもりなのかしら?
「えっと・・・」
RE:ご心配おかけしました。 よく無事だったわね。
素直じゃない姉の性格を、少し可愛いと思っていた。 俺の物になれ、嵯峨・・・。 今なら彼が本気でそう言っていたのだと、僕は信じられる。
「嵯峨(さが)君、そろそろ出る時間だけど大丈夫?」
手に重いマスコットを取り付けたキーを持って、優しい笑顔が立っている。
プラスティックで出来ているマスコットの腹には、ブロンド女性二人が並んで写っているプリクラシールが貼ってあり、ギョッとしたが、よく見ると有栖(アリス)さんとジェニファー先生のものだった。
恐らく有栖さんが勝手に貼ったものだろうと納得する。
「ああ車折(くるまざき)さん、今行きます」
キャスター側を下にしてスーツケースを立てると、その上にリュックを置いて転がした。
「随分荷物少ないね、一ケ月近くいたのに・・・本当に忘れ物ない? 全部入れた?」
貴重品以外はスーツケースだけという、英国(イギリス)入国時と変わらない僕の姿を見て、車折が首を傾げながら言った。
「昨日のうちに、入りきらないような物は、全部送っておきましたから」
家族、親戚、友人、御近所様など、皆さんにお配りする土産だけで、郵便局に置いてある一番大きな段ボール箱、二ケース分も送る羽目になってしまい、送料を聞いて悲鳴を上げたものだ。
受け付けた小父さんが、船便ならそれほど高くないとアドバイスしてくれたが、母や姉の怒る顔が目に見えていたので、涙を拭きながら航空便代を支払った。
帰国次第さっさとバイトを探さないと、二学期以降も人並の高校生活を続けることは困難だろう。
溜息をつきながら部屋を出ると、無意識に細い階段を見上げた。
「なるほどね。・・・ああ、鹿王(ろくおう)君ならいないみたいだよ」
それだけ僕に教えてくれると、車折が先に階段を下りて行く。
確かに物音ひとつ聞こえない屋根裏部屋は無人に思えた。
「そうですか・・・」
結局、まともに話もできないまま、終わってしまうのだと思うと、なんとも言えない虚しさに、心が包まれた。
命懸けで金虎(きんこ)のアジトから僕を救出してくれた鹿王は、あれから何事もないように元の生活へ戻ったように見えた。
部屋に籠りきっているか、早朝から出掛けて夜遅くまで帰って来ないか・・・そして帰ってくれば、ずっと部屋に籠っている。
倫敦へ来て、姉に言われてすぐに送ったクイーン宛てのメール。
金虎の屋敷から戻った夜に、再びスマホンをチェックしてみると、2日前にメールを一通着信していたが、それはクイーンではなく、姉の渡月(とげつ)からのものだった。
それに、なぜウィンカーとブロンディーが、あんたのことでメールをくれるのかがよくわからないけれど、姉上の言葉をよくお聞きなさい。
あんたが仲良くしているお友達が、あんたに企みを持って近づいている可能性があるらしいわ。
ウィンカーとブロンディーは、そのお友達にあまり近づかないように伝えてほしいと言っていたけれど、あたしはそれをあんたに期待しない。
だから、きっとあんたはすでにトラブルに巻き込まれている・・そう思っている。
けれどそのときには、かならずクイーンが動いてくれる。
そしてウィンカーとブロンディーが、あんたを助けてくれる筈よ。
二人が来たら、彼らはあんたの味方だから、心配しないで言う通りにしなさい。
既に何度か直接会っているらしいから、顔は知っているわよね。
清華(しんか)街にいる、ラーメン屋のことよ。
もちろんあんたに何かあるようなら、あたしもすぐに布哇(ハワイ)から助けに行く。
あんたのことだから、きっと今頃自分を責めていることでしょう。
でもお友達を信じた結果、運悪くトラブルへ巻き込まれた・・・そういうことでしょう?
クイーンは厳しい人だから、あんたにきつい事を言ったらしいけれど、あたしはあんたのそういう優しいところが好きよ。
それにあんたの思いは、必ずお友達にも通じている筈・・・そう信じているわ。
まっすぐに育った嵯峨は、あたし達家族の誇り。
解決したら、残りの勉強をちゃんと済ませて、それから胸を張って帰って来なさい。
そして無事を伝えるため、すぐに姉へメールを出した。
安心させてやれ・・・別れ際、ピカデリー・サーカスでジンソンに言われた言葉を思い出していた。
ウィンカーとブロンディー・・・それがジンソンとチャンジンのハンドルネームであることは、間違いないだろう。
鹿王から話を聞いた二人は、頑なになっていた僕へ警告をするために、姉に連絡をしてくれた。
文面を読む限り、状況が具体的ではないということは、姉を不安にさせないために、彼らなりに配慮をしてくれたということだろう。
あとは、マフィアである自分達の身分を隠す目的もあるだろうか。
本当に、どこまでも世話になりっぱなしだった。
次に会うことがあれば、何か礼をしないといけないと思うが、そんなことを聞けば、また鹿王が怒り出すだろうか。
彼らもまたマフィアの一味だというのに、どこまで不用心なのかと・・・。
いや、やはり命の恩人に感謝してはいけないということはないだろう。
鹿王にもまた、心の底から感謝をしたい。
1分後に返事が返って来た。
時計を見ると、夜の9時だった。
布哇との時差は10時間・・・いや、サマータイム中はたしか9時間だっただろうか。
いずれにしろ、現地はおそらく昼前ぐらいだろう。
なるほど、平日なら会社で会議にでている可能性もある・・・が、そんなことは僕にわかるわけがないので。
なぜ怒られたのか腑に落ちないと思っていると、もう一通メールを着信した。
戻ってみると、スマホンは僕の部屋に置いてあったが、どうやら鹿王の部屋に忘れていたらしい。
彼と揉み合いになり、ベッドへ倒されたときにゴトリと重い音がした。
あのとき、彼のカメラが床に落ちたと気付いたが、僕の服からもスマホンが飛び出していたのだろう。
それに気付かず、僕は彼をベッドから蹴り落として屋根裏部屋を後にしていた。
鹿王はおそらく、携帯のメール履歴をみて、渡月が僕の姉であり、またルナであることに気が付いたのだろう。
そして鹿王はジンソンとチャンジンにコンタクトをとって、彼らから姉へ連絡をしてもらい、僕に警告を発するつもりでいたのだろうが、その夜僕が帰ってこなかったのだ。
自分で姉に連絡をしなかったのは・・・鹿王がルナを苦手にしている、ただその一点からであろう。
これは姉が知れば、傷つくであろうから、言わないほうが良いと思うが・・・・いったい姉が鹿王へ、どんなメール攻勢とやらをしているのか、少し気になった。
・・・銃を構えた金虎の構成員達の前に立ちはだかり、僕を守った鹿王。
揉み合いになったときに、もしも彼に揶揄れなければ、あるいはあのまま彼と、身体を繋げていたのだろうか。
銃を構えた金虎の構成員達の前に立ちはだかり、僕を守ってくれた。
だからこそ、彼ときちんと話をしたかった・・・。
「本当に、何考えてんだよ・・・」
「えっと、何か言った?」
3階の廊下を歩きながら、少し前を行く車折が振り返る。
「その・・・、ちょっと有栖さんに挨拶してきます」
「ああ、そうだね・・・じゃあ、それ持って先に行ってるよ」
「いえ自分で・・・」
「いいから、いいから」
結局スーツケースを車崎に任せ、有栖さん達の部屋へ一人で向かった。
残念ながら有栖さんは不在だったが、幸い広隆(ひろたか)氏が戻っていた。
「気を付けてね。それからお父さんによろしく」
「はい、伝えておきます。本当にお世話になりました・・・、有栖さんにもお礼を言っておいてください」
「了解。・・・ごめんねえ、来た時も帰るときも、女房が留守で。・・・なんか、また本を作るとかで、妹と一緒に実家に帰っちゃっててね。本当に落ち着かない人だよ」
「ああ、先生と・・・楽しそうですね」
有栖さんの妹である、ジェニファーとは、つまり僕やヒデの担任であった、ジェニファー・スティーヴンのことだった。
なんとなく似ているとは思っていたが、まさか二人が姉妹だと知ったときには、とても驚かされた。
つまり、有栖さんがそうであるように、人生の大半を日本で過ごしていたジェニファーもまた、当然日本語がペラペラなわけで・・・。
「今度は日本人と高寧(こうねい)人の留学生を題材にした、倫敦(ロンドン)が舞台の学園ラブロマンスなんだって。原案はジェニファーらしいよ」
「はははは・・・そうですか」
よもや会話に聞き耳を立てて、しっかり観察されていたとは夢にも思わず、すっかり油断していた。
ただし、それも僕が金虎に誘拐されるまでの話であろう。
あれからヒデは、一体どこで何をしているのか・・・。
西院(さいいん)によると、僕が来るまでの彼はときおりこうして、暫く休みが続くこともあったというが。
ヒデは僕の為に、彼らのリーダーであるギュハを撃ち、金虎の仲間達に取り押さえられていた。
鹿王の車で清華街から出て来るときに、入れ違いに何台もの警察車両が屋敷へ入って行くのを見ていたから、それまでに何かが起きていなければ、殺されたわけではないと思う。
だが、ヒデによると七海派(しちかいは)は裏切り者をけして許さない組織だ。
彼は・・・無事でいてくれているのだろうか。
「それじゃあ、そろそろ行った方がいいんじゃないかい? 龍安(たつやす)君が待ってくれているんだろう? 一応道は教えておいたけど、本当に大丈夫かな・・・。僕が行けたらよかったんだけど、仕込みがあるから・・・」
話をしながら、心がいつしかあの夜へ戻り掛けていた僕は、広隆氏の言葉で我に帰る。
時計を見ると、予定の時間をとっくに過ぎていた。
のんびりとし過ぎていたようだった。
「お気遣い頂いてありがとうございます。お忙しいでしょうから、広隆さんはそろそろお仕事に戻ってください。僕ももう行きます。・・・あの、本当にお世話になりました。色々とご迷惑ばかりおかけして申し訳ありません」
「迷惑だなんてとんでもない。とても楽しかったよ。またいつでも来てね、僕や女房も、皆も待っているから」
「はい、是非またお邪魔させてください」
「絶対だよ。それと、愚息をよろしく」
「はい・・・。えっと、あの・・・」
「あ、龍安君だ・・・遅いから呼びに来たんじゃないかな」
「うわ、やばい・・・それじゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。気を付けてね!」
気が付けば、いつもの癖で互いにそう挨拶をしながら、下宿を出ていた。
なんだか夕方には帰っているような・・・そんな気がしていたが、僕はこれからヒースロー空港へ向かうのだ。
帰国のために。
そして、うっかり聞きそびれていた。
愚息をよろしく・・・広隆さんが言った、その言葉の意味を。
よろしくもなにも、鹿王とはこの二週間、まともに顔も合わせていないというのに。
最後ぐらい、ちゃんと挨拶がしたかった・・・。