「忘れ物ない? パスポートはスーツケースに入れたりしてないよね?」
来る時に父が言っていたのと、似たようなことを言われて苦笑した。
「大丈夫です、今チェックインカウンターで見せてきたばかりですし。・・・あの、送って頂いて本当にありがとうございました。車崎さんには、凄くお世話になりっぱなしで、いつかちゃんとお礼をしないとって思っていたんですけど・・・」
「気にしないで。だいたい嵯峨君の世話なんて、等持(とうじ)に比べたら息抜きみたいなもんだよ。でも、どうしてもって言うなら、一度デートでもしてもらおうかな」
「は? ・・・っていうか、車折さんはいつ帰国されるんですか?」
「来年の夏ぐらいかな・・・今のところはその予定をしてるけど、気分次第だよ」
「気分次第ですか・・・」
車崎はずいぶんと倫敦に馴染んでいるようだし、あるいはそのまま移住していても、少しも可笑しくない気がした。
「あ、僕はここまでだな。じゃあ、元気でね。またメールでもするから」
「はい、僕もメールします。山ノ内さんにもよろしく伝えてください」
「帰ったら早速メールしろって言っておくよ。じゃあね」
彼にきちんと頭を下げてゲートへ向かいかけ、何となく振り返ると、また車崎の笑顔と会った。
もう一度頭を下げて、今度こそゲートへ向かう。
更に振り返ったりしたら、きりがなさそうな気がした。
きっと彼はそんな感じで、僕の姿が見えなくなるまで、笑顔で見送ってくれていたのだろう。
まだ先が長い筈のこの先の人生において、これほど優しい人に二人と出会える気が僕はしなかった。
不意に携帯が鳴って驚いた。
「うわ・・・やばい、電源入れっぱなしだった・・・って、機内じゃないから、まだいいのか」
スマートフォンを鞄から取り出し、知らない番号に首を傾げながら、一応出てみる。
日本の固定回線や、携帯の番号ではなかった。
「Hello」
念のために、英語で応対した。
間違い電話です、ぐらいの英語は言えるようになったと思う・・・たぶん。
暫く無言が続き、不審に思う・・・向こうも間違いに気付いて、何と答えるべきか、迷っているのだろうか。
それにしたって、何か言えばいいのに。
「あの、鳴滝(なるたき)ですけど・・・どちら様ですか?」
思わず日本語が出てしまう。
ボーっという感じの、低い汽笛のような音が聞こえてくる・・・そして沢山の人が、電話のすぐ後ろで会話をしているようなざわめき。
港・・・なんとなく、そんな光景が頭に浮かんだ。
「切りますよ・・・」
いつまで経っても話す気がないなら、こちらから切るしかない・・・あるいは、電話を掛けるつもりもないのに、ボタンを押し間違えて、偶然かかってしまったというやつかもしれない・・・僕の番号が、電話帳か通話記録にでも入っていないと、それはありえないと思うのだが。
『ほんまに、ごめんな・・・』
切断ボタンを押しかけて、聞き覚えのある関西弁に指を止める。
この声・・・嘘・・・だろ。
『一言どうしても、謝りとうてな・・・ほんまにごめんやで、嵯峨」
「ヒデ・・・? ヒデなの・・・!?」
鞄を取り落としたのも構わず、電話に呼びかけた。
『・・・ああ、なんや聞こえとったんやな』
まるで僕が切るのを待っていた・・・そういう口ぶりだった。
だったらどうして架けてきたのだ。
「今どこにいるんだよ・・・あれから学校にも来ないし、何してるんだよ!」
『まあ色々あってな・・・嵯峨が元気そうで、安心したわ。もう日本戻る頃やろ・・・せめてこっちおる間に声聞きたかったんや・・・話せても地球の裏やって思うと、なんや寂しいからな』
「僕は今空港・・・これから帰国するんだ・・・ヒデは? どこにいるの!?」
『ヒースローか・・・ぎりぎりやな・・・・』
「ねえ、どこにいるんだよ、応えて! 会いたいよ・・・」
声が震えてきた・・・視界がぼやける・・・涙が止まらなくなった。
この電話の向こうに彼はいる・・・そうわかっているのに。
生きていてくれたらそれでいい・・・そう思っていた筈なのに。
「泣かんとってや嵯峨・・・そんな声聞かされたら、俺も会いたなるやん」
「ヒデ・・・お願い。教えてよ・・・今すぐに会いたい」
『俺かてずっとそう思ってたわ・・・今も、ぎゅって嵯峨のこと抱きしめて、いっぱいチュウしたい・・・せやけどな、ちょおやらかしてもたから、そういうわけいかんねん』
「・・・捕まってるの? 警察にいるなら、それでもいいから会いに行く。拘置所? 出て来るの、ずっと待ってるから・・・」
『嬉しいこと言うてくれるな・・・そんなん言われたら、プロポーズしたなるわ。・・・嵯峨、幸せになりや』
「嫌だ・・・ヒデ、何言ってるの? 切らないで・・・」
『ほんまにアホやな嵯峨は・・・どこまでお人好しやねん。せやから・・・こんなに惚れてもうたんや・・・』
「ヒデ・・・」
『愛してるで、嵯峨』
「僕も・・・愛してる」
『もう、いつ死んでもええわ』
「馬鹿っ、そんなの許さない!」
『堪忍な』
「ヒデ・・・やだ、ヒデ・・・!?」
許しを乞う関西弁の言葉を最後に、ふつりと通話が途切れてしまう。
すぐに掛け直すが、聞こえて来たのはコール音がわりの古いポピュラーミュージック・・・たしか、『ラブ・ミー・テンダー』というタイトルだっただろうか。
何週間か前にも、この音楽を携帯の着信音にしていた人がどこかにいた・・・誰だったかが、はっきりと思い出せないが、ヒデではなかった。
暫く待って留守番電話センターに繋がるが、メッセージがすでに一杯らしく、残すことができなかった。
何度かそれを繰り返すが、結果は同じだ。
そのまま通路に座りこむ。
立ち上がる気力も失せていた。
誰かを失うことで、これほどダメージを負ったのは、生まれて初めての経験で、どうしてよいのかわからない。
改めて思う。
これが人を愛するということなのだろう。
辛い体験だった。
ゲートへ向かう通路は混雑しており、行きかう人の足が、僕を避けてくれながら通り過ぎてゆく。
こんなところに蹲ってだらしなく泣いていたら、関わり合いになりたくないと思われて当然だった。
しかし、漸く一人が立ち止り、目の前に手を差し出される。
優しい人もいるものだと思ってよく見ると、手にはポケットティッシュが握られていた。
「サ・・・Thank you...」
ティッシュを受け取り、差し出し主を見上げて、目を瞠った。
「まったく・・・いい年をして、お前はこんなところで何をやっているんだ」
きつい口調で言い放つと、鹿王は横柄に腕を組み、冷めた目で僕を見下ろしてきた。
帷子ノ辻鹿王(かたびらのつじ ろくおう)。
僕がこの一ケ月世話になった下宿の息子であり、一度は僕に口付け、抱こうとした男であり、命懸けで僕を金虎のアジトから救出してくれた男・・・。
そしてそれ以来、何事もなかったように、これまでと何も変わらないであろう彼の人生を、マイペースに生きている・・・。
「どうして・・・鹿王さんが・・・」
てっきり僕とは関わりたくなくなったのだと、そう思っていた。
銃口を向ける男たちの前に立ちはだかり、僕を守ってくれた彼の思いを、今は疑っていない・・・。
それでも、僕と話そうとせず、顔を合わそうともしなかった・・・だから、僕との出来事に封印をしたのだろうと。
何もなかったように、彼の人生をこれまで通りに生きるつもりなのだと・・・そう思っていたのだ。
それなのに、なぜ今になって鹿王は、・・・・そういえばここにいるということは、出発ゲートにいるということじゃないか。
「まずは鼻をかめ。話はそれからだ・・・ほら、チーンしろ」
もう一度手からティッシュを奪われ、1枚とって鼻に押し当てられる。
「なんらよ・・・もうっ。・・・・で、どうして鹿王さんがここにいるの? 旅行?」
言われたとおりに鼻をかんでから質問した。
「留学だ・・・ほら、お前鞄落としてたぞ。ったく・・・これじゃあ日本に着くまで、目が離せないな」
「へえ留学・・・っていうか、日本って今言いました!?」
「ああ。日本の大学へ通うことになった」
「マジ・・・?」
僕は呆気にとられて鹿王を見上げていたが、驚くのはまだ早かった。
「マジだ。そんなわけで、当分お前んちに厄介になる・・・宜しくな。おい、搭乗始まったから、早く行くぞ」
「そうなんだぁ・・・って、・・・ちょ、ちょっと! 今何て!? だいたい、うちは鹿王さんちみたいに、広いお屋敷じゃないから、泊まる場所なんて・・・姉上もいるし」
「お前の親父さんに聞いたら、お前の部屋を使っていいって言ってくれたぞ」
「何勝手なことを言ってるんだよ! じゃあ、僕は一体どこへ行けばいいのさ! この年になって、姉上と同じ部屋なんて、冗談じゃないぞ!」
「まあ、確かにルナと同じ部屋っていうのは、ちょっと怖そうだな・・・っていうか、お前、面白い呼び方しているな。時代劇みたいじゃないか。お前は自分の部屋だから堂々としていればいい」
「当たり前じゃないか・・・いや、そうなると、つまり・・・」
「まあ、細かい話はあとだ・・・とりあえず、俺達の新しいスウィートホームへ帰ろうぜ」
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