『モンマルトルの窓辺から』


 

高速を抜けた車は、すでにパリ市内に入っていたのか、渋滞の中で止まっていた。
俺は後部座席の傍らに置いたボストンバッグの上で、明日着替える予定の礼服を収めたスーツバッグが滑り落ちないように抑えながら、今しがた聞いた信じられない英語の文句を、頭の中で反芻していた。

”Will you marry me? ”

「あの・・・今、なんて?」
聞き間違いじゃなければ・・・、
「聞こえなかったか? だから、俺と結婚してくれないかって言ったんだよ。 あー・・・えーと、タケシ?」
バックミラー越しに、ステアリングを握る運転手がこちらへ視線を送ってきた。
そう。
俺はプロポーズをされていた。
「タカシです」
「ん・・・? タ・・・カ、シ? タケシ、タカシ・・・ははは、難しいなぁ、日本の名前は」
「・・・・・」
俺、近衛敬は、人にプロポーズをしながら、その相手の名前を間違えている彼の背中を、軽く睨みつけた。
「ルシュディー」
「は?」
「俺の名前だよ。ルシュディー。ほら、言ってごらん?」
「はぁ、・・・ルシュディー・・・?」
どうやら、自己紹介をされたらしい。
「そう、よろしく」
「どうも・・・」
言うと、彼は満足そうに笑い、再び動き始めた車の流れに乗って、街の南を目指した。


今から1時間前のこと。
着陸態勢に入ったKLM機の小さな窓から、有名なリンドバーグの言葉を頭に思い浮かべつつ、俺はパリのきらびやかなイルミネーションを見下ろしていた。
右に左にとアングルを変えながら、徐々に街を立体的に形成し始めてゆく、眩ゆいオレンジ色の光の大群。
乗り換えを含めて12時間以上を要し、やっと到着したフランスという国は、すっかり夜が更けていた。
手荷物受取所でスーツケースを回収して、足元に下ろしていたボストンバッグを肩へかけ直し、ハードタイプのスーツケースの上にスーツバッグを乗せると、俺は辺りを見回しながらやれやれと溜息を洩らす。
肩に食い込んだバッグの紐が、少しばかりヒリヒリと痛み始めていた。
カートを見つけられず、ボストンバッグを肩へ提げながら、ガムシャラに歩き回った乗り換え地のスキポール空港は、やたらと通路が直線的で長いところだ。
おかげで旅慣れなくとも迷子にならないのがメリットだが、表示が見えてからも、なかなか目的のゲートへ到着しないため、つい必死になって歩いてしまう。
動く歩道が充実しているのが幸いだが、じっと立っていてもなかなか到着しないので、その上をさらに歩きたくなる。
左手でスーツバッグが落ちないように支え、右手でその肩を少し押さえる。
「ちょっと擦り剥いているのかも知れないな・・・」
おそらくボストンの提げ紐で、真っ赤になっているであろう左肩から手を下ろすと、スーツケースを前へ押し、再び空港内の案内表示へ注意深く目を凝らして、俺はアエロガール2を歩きだした。
乗り換えを含めて、移動時間は12時間以上。
朝起きてからとなると、既に20時間以上も覚醒状態が続いており、明け方近くまでかかってしまった旅行準備のおかげで殆ど睡眠をとれなかったコンディションの俺は、ぼちぼち意識が朦朧とし始めていた。
機内で仮眠をとればよかったのだろうが、一人でいると到着してからのことを考えてしまい、どうにも眠る気になれなかったのだという理由もある。
「せめて連絡ぐらい入れておこうかな・・・」
前乗りでパリ入りしていた両親は、兄、騏一郎が予約したシャンゼリゼ通りの五つ星ホテルに、昨夜から宿泊している筈である。
到着ゲートへ出てきた俺は、往来の邪魔をしないように荷物をフロアの片隅へ引き寄せると、携帯電話を取り出した。
国際ローミングのセットを済ませて、次にアドレス帳から親父の番号を呼びだし、ダイヤルしてしばらく待つが、一向に出てくれる気配がない。
「まさか、携帯忘れてるんじゃ・・・」
あり得すぎる可能性に思い至り、続けてお袋にコールするが、親父以上に色々な可能性が考えられる彼女の声が聞こえる筈もなく、最後に兄貴の番号を表示して、思案して、結局コールせずに携帯を仕舞った。
再び見知らぬ空港の到着ゲートへ視線を巡らす。
国鉄とシャトルバスの表示をどうにか見つけ出したが、タクシー乗り場が判らない。
やたら何かを言ってくる客引きらしき声は、多分、白タクというやつであろう。
昨年、パリを旅行していたバイト仲間の忠告を思い出し、彼らの呼びこみを無視しようとするが、かなりしつこくついて来る。
振り切ろうと必死に通路を歩いているうちに、自分の居場所が怪しくなってきた。
「えーと・・・タクシー、タクシー・・・参ったな。乗り場がまったく見つからない」
このシャルル・ド・ゴール空港は、かなり広いらしい。
KLM機で到着したターミナルはアエロガール2といって、ほかにはエールフランスや日本の航空会社もここに到着する。
それ以外に、アエロガール1、アエロガール3というターミナルがある。
棟が分かれているので、さすがに別のアエロガールへ迷い込む心配はないだろうが、しかしこのまま歩いて、果たして自力でタクシー乗り場が見つかるものだろうか。
「誰かに聞いた方が早いかな?」
インフォメーションを探そうと思い辺りを見回すが、それらしきカウンターもなければ、空港職員すら見つからない。
「とりあえず、通りすがりの人にでも・・・」
そう思い、向こうから歩いてきた中年女性へ声をかけようとして、スーツケースを斜めに振ったところで、何かにぶつかった。
「おっと・・・君、大丈夫かい?」
バランスが崩れ、倒れてしまったスーツケースを立て直していると、俺と衝突したらしい人物が少し離れたところへ放り出されたスーツバッグを拾いあげてくれた。
「あ、すいません・・・怪我、ありませんでしたか?」
相手が英語で声をかけてくれたので、こちらも英語で問い返す。
「大丈夫だよ。君こそ平気かい?」
目鼻立ちのはっきりとした、背の高い、若い男だった。
アラブ系だろうか?
「はい。ありがとうございます」
差し出してくれたスーツバッグを受け取りながら答える。
「どういたしまして・・・あれ、君は・・・」
男は一瞬おや、という顔をした。
「はい?」
「ああ、いや・・・何でもない。・・・それより君、ひょっとして迷子になってない?」
彼は明らかに何かを言いかけて、それを止めると、俺の置かれた立場をズバリ言い当ててきた。
「えっと・・・」
「だって、到着ゲートからひたすら歩いて来たと思ったら、通路の途中で突然、方向転換するんだもの。ねえ、そんな荷物を抱えて一体どこへ行く気なの? シャトルバスならもう少し先だし、鉄道なら反対方向だけど・・・ひょっとしてタクシー探してるの?」
どうやら俺に続いて、ずっと後ろを歩いていたらしい。
「・・・まあ、そうなんですけど」
「なるほどね」
男は手ぶらで歩いていた。
そしてこの発言。
どうやら空港内に詳しそうなこの男に、俺は聞いてみることにした。
「タクシー乗り場、どっちなんでしょう」
「君、日本人かい?」
俺の問いには答えず、男は質問してきた。
「ええ、まあそうですが」
「パリのタクシーで日本語や英語を話せる運転手は少ないよ。料金面から言っても、シャトルバスの方が無難だと思うけど」
心配してくれているらしい。
英語はともかく、たぶん日本語が話せるタクシー運転手は皆無だろう。
探そうとも思わない。
「ええ。ですがこの荷物ですから・・・」
「ああなるほどね。変にバスティーユ辺りへ下ろされても、夜の街をその荷物で練り歩くのはもっと危険だな。とくに、君みたいな男の子じゃ。・・・オーケー。こっちに来いよ。案内してあげる」
言うと、男は勝手に通路を進行方向へ向かって、さらに歩きだした。
「あの・・・道だけ教えていただければ・・・」
「君にかい? ははは、余計に心配だよ。気にしないで、どうせ俺も帰るだけから」
そう言ったきり、彼はしばらく通路を歩いた後にターミナルの外へ出ると、今度は壁際の通路を再び延々と歩きだし、やがて路駐にしてある1台の古ぼけたプジョーの前で止まった。
てっきりタクシー乗り場へ案内されると思っていたため、大いに混乱している俺を尻目に、彼はさっさとトランクを開けると、俺の手元からスーツケースを勝手に奪い取り、ドサリと中へ押し込んだ。
続けて後部座席のシートへボストンとスーツバッグを投げ入れられて、「君も乗れ」という目で見られると、もう乗りこむしかなく、俺はシートの手前に落ちていたスーツバッグを拾い、そこへ自分が座った。
「君はそっちに乗るのか」
そう言った男は前へ回り込むと、運転席へ乗り込んできた。
「で、どこに行きたいんだい?」
エンジンをかけながら聞いて来る男にホテルの名前を告げると、すぐに納得して車を発進させる。
当然ながら料金メーターらしきモノはなし。
たぶん、やられたなと思いつつ、俺は仕方なく成り行きに任せることにした。
およその運賃は、すでにインターネットで調べてある。
妙な値段を吹っかけられそうになったら、相場の金額だけ押しつけて出て行けば良い。
騒げばホテルから従業員なり、通りすがりの警官なりが、駆けつけてくれるはずだ。




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