「ところで、そのスーツバッグの中身はスーツ? それともモーニング?」
高速を降りたあたりで、運転席の男が聞いてきた。
「略礼服です」
「へぇ。すると結婚式か何かに出るのかい?」
「ええまあ。・・・明日の午後、兄の結婚式に参列するもので」
街中に入ると、車はいきなりの渋滞に出くわした。
これは結構時間がかかりそうだった。
「そりゃあ、おめでたい話だね。それにしてもわざわざ日本から参列とは、親族も大変だな。お兄さんはこっちに住んでいるのかい? 新婦はフランス人?」
「いえ、新婦も日本人ですが、留学中にこっちの大学で知り合ったとかで・・・。二人が思い出のキャンパスでどうしても式を挙げたいらしく、大学のチャペルで行うことになったんです」
「それはそれは。で、どこの大学なの?」
「メッシーヌ・ベルシー大学です」
「16区の?」
「さあ・・・エッフェル塔のあたりだと聞いていますが」
「16区だよ。ふぅん、メッシーヌ・ベルシーねぇ・・・」
運転手はそう言ったきり、しばらく何かを考え込むように、黙ってステアリングを握り続けた。
有名な大学なのだろうか。
外の景色を眺める。
相変わらずの渋滞で、車は高速を降りたきり、ほとんど動きがない。
「混んでますね」
「この道は、いつもこんな感じさ」
何気なくバックミラーを見ると、運転手と目が合った。
慌てて目を反らす。
いつから見られていたのだろうか?
「君、恋人は?」
いきなり、プライベートな質問をされた。
それとも単なる世間話のつもりか。
「いません」
「年は?」
「21歳です」
「じゃ、一つ下だな」
「そうなんですか?」
もっと年上に見えていたもので、驚いてバックミラーに目を戻す。
するとまた目が合った。
探るような目付きをしていた。
少しだけ、恐怖心を煽られる。
「名前は?」
「近衛敬です」
「タカシか・・・いい響きだな」
「日本じゃポピュラーな名前です」
「そうなのかい?」
そう言って運転手はノロノロとした流れへ、静かに車を乗せたまま話を続けた。
「俺も一人なんだ。好きな人はいたんだけどね・・・残念ながらその人はもうすぐ結婚してしまう」
「そうなの・・・?」
「ああ。俺はふられたのさ。可哀相だろ?」
そう言って彼はバックミラー越しにまた視線を送ってくる。
「はぁ・・・」
質問攻めの次は、どうやら自分語りのようだった。
俺は、英語の会話に少し疲れてミラーから目を逸らすと窓の外へ視線を投げた。
道行く人の顔立ちが、運転手と同じような雰囲気になっている。
アラブ系か・・・いや、サリーを身に付けた女性がいたから、インド系だろうか。
たしかホテルのすぐそばに、インド人街があった筈だから、そろそろホテルが近いのかも知れない。
少し安心して、胸を撫で下ろす。
空港を出てから、もう1時間近い。
後は料金をどうするか、だな。
「俺と結婚しないか?」
突然そんな言葉が聞こえて、俺は目を丸くした。
「あの・・・今、なんて」
「聞こえなかったか? だから、俺と結婚してくれないかって言ったんだよ。あー・・・えーと、タケシ?」
「タカシです」
訂正すると、彼は自分はルシュディーだと名乗りながら、日本の名前は難しいとぼやき、俺の名前を何度も繰り返していた。
「あの・・・結婚って、一体どういう・・・」
「ん?」
さきほどの質問の意図するところを問い質そうとして声をかけ、バックミラー越しに平然とした彼の目と合ってしまう。
俺は自分の愚鈍さに、猛烈に腹が立った。
問い質すも何も、こんなもの冗談でしかありえない。
単なる会話の流れから来たジョークか、あるいは揶揄われただけであろうに、俺ときたら・・・。
逸らしていた目を再びバックミラーへ戻すと、またルシュディーと目が合い、俺に気づいた彼がウィンクをよこしてきた。
俺は頬が熱くなるのを感じ、たまらず下を向くと、咳払いをする振りをして顔を隠した。
絶対に笑われている。
「着いたよ」
いつのまにか停止しており、彼は先に車を出ると、機敏な動きでトランクから俺のスーツケースを取り出していた。
慌てて俺も後を追う。
目の前でモタモタしていると何を言われるか判ったものではないため、とりあえず、先に財布だけボストンバッグから出しておいた。
「これ、中に入れる?」
車から出てみると、すでにキャスターを転がしていたルシュディーが、ホテルのロビーへ目線を送りつつ、スーツケースの処遇を俺に確認してきた。
俺は質問には返事を返さず首を横に振って、それ以上触らないでほしいことを言下に伝えると、「相場は40か50ユーロだよね?」とこちらから料金を尋ねた。
これでボッタクリを牽制できたはずだ。
よもや俺が料金を知っているとは思わなかったのだろう。
ルシュディーはたっぷりと30秒は言葉をなくして立ちつくし、その間、俺の顔と自分の車とを交互に何度も見比べていた。
だが。
「大型荷物に夜間料金加算で、70ユーロだな」
かなりムッとした声だった。
車の中で聞いた優しい響きとの落差に驚く。
端正な顔が冷たく見下ろしていた。
動揺した俺はその視線から逃げるように、黒革の財布から真新しい紙幣を素早く3枚抜き取ると、金額だけ確認して彼の胸に押しつける。
怖くて目が合わせられなかった。
「じゃあこれ・・・」
声が震えていた。
そしてスーツケースへ手を伸ばそうとして、後ろからその腕を掴まれた。
「おい、ちょっと待てよ」
「え・・・っ?」
見下ろす目が・・・・とても怖かった。
腕を振り払おうとするが、ちゃんと力が入らず離れない。
そんな俺の抵抗が彼を余計に苛々とさせたのだろうか。
段々とその目が険しくなっていくのが判る。
怖い。怖い。
「人を・・・呼ぶぞ・・・」
騒げば、ホテルから従業員が出てきてくれるはずだ。
彼もそれは困る筈。
だが。
「してみろよ」
ニヤリと笑うと、そのまま腕を強く引かれ。
「・・・・・」
唇を塞がれた。
思いがけない行動に頭は混乱し、思考が停止した。
ハンドルを握っていたスーツケースから、次第にそれどころではないらしいと思いが至って手を放し、次に両腕を前で突っ張って相手の身体を押し返そうとする。
しかし逆にそれが気に障ったのだろう。
いつのまにか後ろへ回されていた腕で腰を引き寄せられ、今度は深く口付けをされた。
スルリと入ってきた舌が、自由に口の中を侵してゆく。
舌を絡ませ、歯列をなぞられ、洩らした吐息に微かな声が混じってしまって、羞恥する。
身体から段々と力が抜け、意識が薄れそうになっていた。
不意に胸元で機械的な震動を感知した。
同時に彼の動きがぴたりと止まる。
どうやら携帯のバイブレーションだ。
俺は慌てて彼の腕から逃れると、肩から下がりかけていた鬱陶しいボストンバッグもそのままにスーツケースを押す。
キャスターを少し転がしたところで、いつの間にか地面に落としていたスーツバッグに気づき、それも苛々と回収して、小走りにホテルの玄関へ向かった。
途中で足元の段差に、無理やり引きずり上げようとしたスーツケースを2度強くぶつけて、その度にボストンバッグとスーツバッグを落下させる。
玄関前に到着したところで、自動ドアを開放させたまま、取り落した荷物を回収する羽目になり、その頃にはもう泣きそうになっていた。
大いに無様だった。
ようやく駆けこんだロビーの中からガラス扉越しに一瞬だけ後ろを振り返ると、携帯電話をジャケットの胸ポケットへしまいながら、ルシュディーが車へ乗り込むところだった。
ひょっとして自分の携帯かと思ったバイブレーションは、どうやら彼への電話だったらしい。
急発進でプジョーがホテルの前から立ち去ってゆく。


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