俺は大きく溜息を吐くと、ホテルのロビーを見渡した。 兄は15分ほどで来てくれた。
フロントに立っていた男性従業員と目が合う。
今のキスを見られていた可能性が極めて高いが、よく教育をされているのだろうか、とりあえず従業員からは何の反応も感じられなかった。
「Bonsoir」
最初の一言だけをフランス語で話しかけて、俺はチェックインの手続きを開始する。
だが。
「恐れ入りますが、今夜は満室でございます」
綺麗で信じ難い英語が返ってきた。
「そんな筈はない。日本からオンラインで予約をしていた」
「それでは、パスポートを見せて頂けますか?」
身分証明を要求されて、俺はボストンバッグのファスナーを開ける。
そして愕然とした。
「そんなはずは・・・」
バッグの外ポケットやジャケットも探るが、パスポートが見つからない。
「お客様?」
従業員が不審そうに呼びかけてくる。
「ちょっと待って・・・」
俺は彼にパスポートが見つからないことを簡単に告げると、今度はボストンバッグの中身をその場に引っ張り出して、徹底的に探し始めた。
従業員もさすがに面食らったらしく、カウンターから飛び出してくる。
マナー違反だということは重々承知の上だったが、しかしこの際恥ずかしいなどと言っている場合ではなかった。
しまいには従業員も手伝ってくれて、二人でパスポートを探した続けた。
入り口のドタバタを見ていたらしい彼は、玄関の外まで見に行ってくれたが、やはり何も手にすることなく帰ってきた。
フランス到着早々、パスポートの紛失が濃厚だった。
とりあえず予約控えのプリントアウトが見つかったので、俺はそれを彼に提示した。
その結果、よく似た名前の違うホテルへ飛び込んでいた事実が判明し、俺は二重に恥を掻くことになったのだった。
「本当にすいませんでした!」
「いいですよ、それよりちょっと待って。その荷物じゃ、大変でしょう?」
従業員へ平謝りをして、出て行こうとすると、親切にも彼がタクシーを呼んでやると言ってくれた。
だが、恥ずかしさが先にたっていた俺はそれを断り、とりあえず外へ出た。
一刻も早く、その場から逃げたかった。
そして玄関から10メートルほど離れたところで携帯電話をとりだすと、兄を呼び出した。
「敬」
タクシーの中から声をかけてきた兄貴は、俺がスーツケースをトランクへ放り込むのを待つと、シートを空けて、俺に確認するまでもなく運転手へ正確な住所とホテル名を告げた。
車が静かに動き出す。
恐る恐ると兄貴を見た。
夜の10時過ぎだというのに、ネクタイをきっちりと締めてスーツを着ている。
今までどこかへ出かけていたのだろう。
結婚式前夜だというのに忙しいことだ。
それとも律子さんと、ムーランルージュにでも行っていたのだろうか・・・?
沈黙で促してくる彼に1分足らずで根を上げて、俺はとりあえず事の顛末を説明した。
もちろん見知らぬ男にキスをされた点については、黙秘を通したが。
そして話を聞き終えるなり、兄貴は大きく溜息を吐くと、
「お前に言いたいことは山ほどあるが、とにかく警察へ行くのが先だな」
そう言って、結局通りを一つ間違えていただけの、正しいホテルへ5分足らずで到着した。
兄貴は俺の代わりにフランス語でチェックインを手早く済ませ、自分で部屋の鍵を受け取ると、日本では2階にあたる部屋へ着いてきたというより、むしろ俺を連れて行った。
部屋はシングルで、中には書き物机に15インチのブラウン管テレビ、何も入っていない冷蔵庫と小さなベランダがついており、バスルームのドアを開けると部屋への出入りが出来ないほど狭かった。
「貧相なホテルだな」
「そんなことないよ」
兄貴が予約したシャンゼリゼのホテルに比べたら見られたものではないのだろうが、二つ星なら上等だ。
ベッドにはチョコレートの小箱がぽつんと置いてあった。
そんなちょっとしたホテル側の心遣いが、擦り減りそうだった俺の神経を少し和ませてくれた。
学生の俺にはこれでも十分だ。
「どうして親父たちと一緒に泊らない?」
不意に煙草の匂いがして、背後で兄貴が火を点けたことを知る。
続いて窓を開ける音が聞こえた。
夜更けだというのにまだまだ賑やかな通りの雑踏が、緩やかな風に乗って部屋に入ってくる。
「バイトしてるし、自分のことは自分でやる。前にもそう言ったじゃない」
「その顛末がこれか」
「それは・・・・・」
それ以上何も言ってこなかった。
兄貴はいつも多くを言わない。
代わりに、少ない言葉で俺を確実に追い詰める。
いつだってそうだった。
けれど、昔はもっと違っていた気がする。
いつからだろう・・・。
その後、兄貴も一緒になって、徹底的に探したが、やはりパスポートは見つからなかった。
「大方どこかで落としたか、掏りにやられたんだろうな」
「ごめんなさい・・・」
「俺に謝っても仕方がないだろう。とにかく警察に・・・、ああ、ちょっと待て。・・・律子か? 今、敬のところにいる・・・」
ベッドから腰を上げたところで、兄貴の携帯が鳴った。
婚約者の森律子さんからだった。
兄貴は明日の午後、彼女と結婚をする。
俺は顔合わせの時に一度会ったきりだが、利発そうな可愛らしい女性という印象だった。
両親はその後も、先方のご家族と何度も会ってすっかり交友関係を深めているようだが、俺は大学やバイトを理由に断り続けていた。
「兄貴、先に行ってるよ・・・?」
「ああ、今から警察なんだが、・・・おい、敬、ちょっと待てって! ・・・律子、親父たちにも心配するなって言っておいてくれないか? なるべく早く帰るから。・・・おい、敬!」
通話を終えた兄貴が、俺の後ろから暗い階段をドスドスと駆けおりてくる。
フロントに場所を確認して俺達は最寄りの警察署へ向かうと、大して待たされることもなく早速書類を作成した。
日本人がパスポートを失くして訪ねて来ることなど、べつに珍しいことでもないらしく、警察の対応も実にあっさりしたものだった。
深く突っ込まれずに済みそうで安心していた俺は、しかし途中で身内に裏切られた。
傍で聞いていた兄貴には、おざなりなやりとりで、警察がさっさと証明書を発行して俺を追い返そうとしているように見えたらしく、いきなり話に割り込んでくるとフランス語で何かをまくしたて、それを聞いて表情を変えた担当警官から、俺は到着直後からの自分の行動を細かく尋問される羽目になったのだ。
そして見知らぬ男の車に乗ってしまった不用心さに呆れられ、被害金額が70ユーロで済んだことに感謝しろとまで言われて、その無礼な態度にまた兄貴が激昂し、予定になかった白タクの被害届まで出す羽目になってしまった。
帰り道は結局、同じ内容で兄貴にも叱られた。
せめてコンディションが良ければ、もっとうまく交わせた筈だとか、あんな強引な男は日本にいないから調子が狂ったのだとか、俺にだって言いたいことは色々あるが、自分の迂闊さをフォローできる程の説得力はどこにもない。
初めて訪れる国で到着した早々、怪しい人物の車にホイホイと乗り込んだのは俺なのだ・・・。
「身ぐるみ剥がれて暴行されてたかも知れないんだぞ」
そんな言葉を、明日花婿になる兄貴に言わせてしまう自分が情けなくてしかたがなかった。
しかしここに自分も泊って行くと彼がごね始めたときには、さすがに驚いた。
どうにか説得して、兄貴が自分のホテルへ帰ってくれた頃には、とっくに夜中の十二時を過ぎていた。
一人になると急に疲れが押し寄せてきて、電気を消すのも忘れて俺は、泥のような眠りについた。
04
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