その後、すぐに兄貴の仲間達が呼びに来て、彼らに兄貴は連れて行かれた。
ここに来て気がついたことは、兄貴や律子さんには、実に多種多様な民族の友達がいること。
皆、1年間のパリでの留学中に、ともにこの大学で学んだ仲間なのだという。
そして彼らは俺が騏一郎の弟だと知ると、俺にまで興味を示して皆口々に挨拶をしてくれようとした。
兄貴が「弟はフランス語が判らない」と言うと、次には英語に切り替えて、話しかけてきた。
留学中に兄貴にどれだけ世話になったのか、兄貴がどれほど愉快な男か、どんなに優しく、魅力的で、頭が良いか。
そんな話に俺はただ、張り付いた笑顔が不自然に歪まぬよう、注意を払って聞いているしかなかった。

”生徒会長の近衛先輩って、近衛の兄貴なんだろ?”
”おまえの兄ちゃんって、マラソン大会でいつも一等だよな”
”君が近衛くんの弟なの? あたし、お兄さんのファンなんだよー”

本当、兄貴ってすげーよ・・・。

「敬くん、ハイこれ」
そのとき、不意に律子さんに声をかけられて、目の前に赤い紙バッグを差し出された。
それは桟橋へ走ってきたときから彼女が手にしていたものだった。
「手土産よ。それ、敬くんの取り分だから、ちゃんと持って帰ってね」
「はぁ・・・」
リボンを解いて、袋をそっと開ける。
中には500ミリサイズの小さなボトルが1本入っていた。
そういえば、さきほどのパーティーで、各テーブルに用意されていたものと同じものだった。
たぶんワインだろう。
「君、何も食べてないでしょ? 結構料理も自慢だったのに、お義姉さん残念だよー・・・あ、もうお義姉さんでいいよね?」
「まあ、べつに・・・あ、すいません。ご結婚おめでとうございます」
「はははは、何それ。遅いぞー」
「すいません・・・・」
律子さんは楽しそうに笑うと、俺の腕をポンポンと叩いてきた。
案外、気さくな人なんだ・・・。
屈託なく笑うその笑顔を見て、俺はちょっと意外に思った。
緊張していたせいもあるのだろうが、顔合わせで会った印象から、てっきりもっと大人しい女性だと思っていた。
たぶんこっちが素なのだろう。
ひとしきり笑ったあとで彼女は、ふと真顔に戻ると、また喋り始めた。
「そのワイン、とっても美味しいからぜひ飲んでね」
「そうなんですか?」
あまりワインに詳しくはない。
ぶっちゃけ、それほど好きではないが、そこまで言うと角が立つので、控えておいた。
「うん。私ね、ここに通っていたころお金がなくて、ずっと日本食レストランでバイトしてたの」
「へぇ」
「こらー、軽く聞き流すな、軽く!」
「はぁ・・・」
なぜか怒られた。
「あのねぇ、こっちの大学って日本と違って、学生は本当に真面目に勉強しないと、付いていけないんだよ? 毎日、毎日、学校から帰っても、5〜6時間は勉強しないと落ちこぼれるの。判るかー日本の現役大学生よ!」
「そうなんだ・・・」
そういえば留学中に一時帰国していた兄貴が、そんな話をしていたっけ。
あの、なんでもそつなくこなす器用な兄貴が、勉強についていくのがやっとだなんて、どんなレベルの高い大学だと思ってびっくりした覚えがある。
だったら帰国なんかしていて大丈夫なのか、ってからかって、そしたら兄貴は・・・あれ、なんであの時、帰国していたんだっけ?
「こっちの学生に混じってフランス語で講義を受けるでしょ? だから私達留学生は、本当に必死なの。授業も課題の発表も、何もかもフランス語。だから本業の他にフランス語の勉強も欠かせないし、あのころは本当に必死だったよぉ・・・」
そう言いながら律子さんは、俺の腕にぶら下がるようにして絡みついてきた。
ちょっとこれはマズイんじゃ・・・と思ったが、誰も俺達を気にしている様子はない。
普段からこういう人なのだろうか?
・・・俺には結構、酔ってはいるようにも見えるが。
「頑張ったんですね」
「そうよー。頑張ったの。あたしも、あなたのお兄さんも」
兄貴も・・・。
律子さんは続けた。
「本っ当、君のお兄さんってブラコンよねぇ」
「は!?」
何を言い出すんだ、いきなり・・・。
「だぁって、そうじゃなーい。昨夜のあの騒ぎは何? 敬くんから電話貰ったとき、あたしと騏一郎さん、うちの両親と君のご両親と一緒に会食してたのよ? なのに、君から電話をもらった途端、そりゃぁもう血相変えて飛び出して行ったわよ。まあ、敬君じゃ仕方がないって、私も君のご両親も諦めていたけど、事情が判らないうちの両親に説明するのが、どれだけ大変だったか・・・」
「そ・・・それは・・・どうも・・・」
「それに留学中の帰国もそうよ。君が毎日寄こして来たあのメール。騏一郎くん、あれいつもすっごく楽しみにしていたのよ・・・ふふふ、バラしちゃった〜」
「はぁ・・・」
いつの間にか呼び方が、騏一郎さんから騏一郎くんに代わっている。
たぶん、二人の時はそう呼んでいるんだろうなと思い、ちょっと面白くなかった。
「でもさぁ、あるとき君が寄こしたメールを見て、彼は勉強が手につかなくなっちゃったわけよ・・・なんだか判る?」
「いや・・・ちょっと」
「君、今ぐらいの時期に風邪をこじらせたことがあったでしょ? あのときの騏一郎くん、本当に酷かったわよ・・・授業中はぼぉっとしてるし、聞いたら全然寝られないっていうし、教授には怒られるし。みんな騏一郎はどうしたんだ、まるで別人みたいじゃないか? ってあたしに聞いて来るし。あのときお兄さん、君の風邪が、長年かけてやっと治った喘息をまた再発させるんじゃないかって、それが心配だったのよ・・・」
「・・・・・」
そうだ思い出した。
あの当時、兄貴のメールに出てくる律子という女性の存在がだんだん気に障り、俺は兄貴の気を引きたい、そんな下らない理由で、風邪をこじらせたと嘘のメールを書いて送った。
中々熱が下がらない、咳が止まらないと・・・。
ある日突然兄貴は家に帰ってきた。

”寝てなくて大丈夫なのか?”
”うん、やっと熱が下がってね・・・でも、まだちょっと咳が止まらないかな・・・ケホッケホッ”

多分、俺のそんな芝居はすぐに見破られていたと思う。
けれど兄貴は結局、2週間も俺の傍にいてくれた。
勉強が大変なんて言っていたけど、結構余裕じゃん、なんて思いながら。
それが、とんでもない誤解だったと、後から俺は知った。
「戻って来てからが、さあ大変よ。山積みの課題に、休んでいた分のノート。幸い、間もなくクリスマス休暇に入ったから良かったけど、あれがなきゃ、間違いなく騏一郎くん危なかったわよ」
「らしいですね・・・」
「本当よー。まあ、さすがに見ていられなかったから私も勉強に付き合ったわよ。でも、バイトもあるじゃない? 昼間は騏一郎君と図書館で勉強、夕方はバイト、帰ってから朝まで、今度は自分の勉強でしょ・・・あのときはさすがに、死ぬかと思ったわよ」
「マジですか・・・・?」
それって、俺のせいでこの人にまで迷惑をかけていたってことじゃ・・・。
「でもね、それだけに何が何でも、試験に合格してやるって思えたの。あたしだけじゃない、騏一郎くんだけでもない、二人揃って試験に合格。だからね、敬くん・・・あなたはある意味、あたしたちの大事なキューピッドなんだよ?」
「・・・・・・」
その言葉は、たぶん俺への赦しであり、決定的な勝利宣言でもあった。
「このワインはね」
そう言いながら律子さんは、俺のバッグから勝手にワインを取り出すと、懐かしそうな目をして続ける。
「バイト先のレストランで出してたものなの。ちょっと甘くって、口当たりがまろやかでね。地元の人たちには全然人気がないんだけど、なぜか日本人観光客には人気があってね。わざわざ買って帰る人もいるぐらい。・・・やっすいワインなんだけどね、はははは」
「律子さんも好きなんですか?」
「もちろん! 新婦が嫌いなワイン出してたら嫌でしょーが、はははは!」
「ははは・・・」
「・・・でね、無事に試験にも合格したバイトの最終日、店長がささやかな送別会を開いてくれたの。テーブルに並んだのは、その日の残り物ばかり。それだけじゃあんまりだって、店長がこのワインを開けてくれて、さあ遠慮なく飲んでくれって。で、そこに騏一郎くんも呼んでくれて、留学中の苦労話やバイト中の失敗談で、何時間も盛り上がって・・・あの日たぶん初めて、私も騏一郎君も、大声で心から笑うことができた。パリであんな楽しい夜は、後にも先にも、あの日だけだったな・・・本当の最高の夜だった」
「・・・・・」
そう呟く律子さんの目は、懐かしむような愛しむような、優しいものだった。
俺は初めて、なぜ兄貴がこの人を選んだのか、判ったような気がした。




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