テーブルクロスの上に、小さく織り込まれた紙幣が現れる。
「何これ」
拾って伸ばしてみると、70ユーロだった。
「昨日のタクシー料金だ。昼間言ったとおり、俺はタクシー運転手じゃない。だからそれを貰う訳にはいかないんだ」
「でも、正当報酬だよ。・・・っていうか、昨日はごめん」
今思い返してみると、俺は暴言の限りを尽くしていた。
「それにしたって多すぎる・・・お前が言った通り、相場は40〜50だ」
返そうとした俺の手を、さらにルシュディーが押し返してくる。
「だから大型荷物に夜間料金なんだろ?」
俺はさらに付き返す。
「それでも多い。・・・いいから収めとけ。昨日はお前の態度にカッとなって、あんなこと言っちまっただけだ。反省してるよ」
ルシュディーも頑なに受け取るつもりはないようだった。
「こっちだって、会ったばかりのヤツにタダで送ってもらう理由はない。困るよ」
「お前は本当に頑固だな・・・、ああ、判った。じゃあ労働奉仕ってことにしよう。これでいいだろ」
「労働奉仕・・・? それでアンタがいいのなら、俺はべつにいいけど・・・でも、俺あんまり時間ないぞ。2、3日中には帰る」
「それで結構だ。とにかく、それは貰うわけにはいかない。仕舞ってくれ」
そう言われて、ようやく俺は紙幣を財布にしまった。
それにしても労働奉仕だなんて、一体何をしたらいいのやら。
洗車か、部屋の掃除でもすればいいのかな・・・。
それでもやはりルシュディーにとっては割が合わない話のような気がしたが、このまま何も受け取らないと言われるよりはましだ。
「なんか却って気を遣わせて、ごめんね・・・」
「別に気なんて遣ってねぇよ。むしろ、こっちこそちょっと意地悪だったと思ってる・・・すまなかったな」
ルシュディーとしては、初対面の俺をからかった反省があるようだった。
しかし、それは俺が最初に彼の好意を白タク扱いしたのが悪い。
「・・・俺っていつもこうなんだよな」
溜息混じりに言う。
「なんだ急に」
「今回のことだってそうだ。自分を守るのに必死で周りが目に入らなくて、結局みんなを困らせて・・・勝手をやった揚句、兄貴に迷惑をかけて・・・」
「それの何が悪い」
「全面的に擁護の余地なんかないじゃん」
「俺には、お前の兄貴がそれを迷惑がっているようには見えなかったから、それによる被害が所在が判らんよ」
「湖で兄貴の怒りを目の当たりにしながら、平気だと本気で思っているのか? そもそもアンタだって、俺に白タクに間違えられた揚句に、掏り扱いまでされた被害者だろう」
「お前は、昨夜に騒ぎを起こしたと思ったら、今度は本当に猛省しているんだな。何かと忙しいヤツだ」
「もっと怒れよ!」
「まず、順を追って反論すべきだろうな。確かにお前の兄貴は晴れの日だというのに怒っていた。けれどそれは、お前というより、むしろ俺が原因だったろう。強いてお前に原因を関連付けるなら、それはお前に関わることだったという理由に過ぎない。つまり、極度のブラコンであるお前の兄貴は、お前が関わると黙っていられないだけだ。ましてや男に唇を奪われていたなどと判明したら、俺を殺しに来るかもな。次に俺が被害者という件だが、それについては理解を得られてありがたい限りだ。しかし、それについての怒りは、とっくに収まったよ。今はむしろ・・・楽しいぐらいだな」
「楽しい?」
「ああ。まずお前の兄貴。偉く完成度の高い男のくせに、弟のこととなると婚約者すら放り出して突っ走る。そして律子。努力家で優しい女性だが、意地っ張りで少々毒舌なところは、なぜだかお前に似ている。・・・そういえば顔立ちもちょっと似ているな」
そう言いながら俺を覗きこんでくるルシュディーに、慌てて顔を背ける。
「似てるわけがないだろう! 俺は律子さんじゃなくて兄貴の弟なのに・・・」
「ははは・・・そりゃあ、もちろんそうさ。あの美しい兄貴とお前は実によく似ているよ。でも、律子にも結構・・・まあ、いいか。わざわざ敵に塩を送る必要はない・・・」
「塩・・・?」
完璧に聞こえるルシュディーの日本語だったが、ここに来て本当に意味が判って言葉を操っているのか、少々怪しくなる。
「塩・・・だろ? 砂糖・・・酢か?」
料理のさしすせそじゃないんだから。
「・・・いや、いいよ。続けて」
なんだか面倒くさくなってきた。
今のは聞き流すことにしよう。
「なによりお前」
「なんだよ」
「お前以上に面白いヤツは、そうそういないと思うぞ。意地っ張りで猜疑心が強いくせに、反省し始めるととことんまで自分を呪い、何より・・・」
「何より・・・?」
「とても敏感だ」
「びんか・・・」
全部言い終わる前に唇を塞がれた。
「こことか・・・・」
次に首筋へ唇が落とされる。
「っ・・・」
皮膚を這う感触に、思わず息を呑む。
「こことかさ・・・たぶん、この下も・・・」
いつのまに外されていたのか、礼服のジャケットと、ベスト、そしてシャツ。
全てのボタンが外されて、俺は完全に前を肌蹴ていた。
「嘘っ・・・何やって・・・」
滑り込む掌に翻弄され、俺はあっという間に息が上がる。
「ほら、本当に敏感だ・・・敬といると、全く飽きないよ・・・」
再び唇を重ねられ、今度は舌を絡められる。
悪戯な指先が上へ下へと感じやすい場所を探り当ててゆき、そのたびに息を呑み、俺は抑えきれない小さな悲鳴をときおり洩らしていた。
徐々に弛緩してゆく身体は、これという抵抗もなく、並んだ2脚の椅子に上半身を横たえられて、覆いかぶさってきたルシュディーの体重を受け入れる。
胸の高鳴りを感じ、しかし押しつけられた腰の感触に、ようやく俺はこうなる先の現実的な側面を知った。
「やっ・・・ちょっと待って・・・」
「何言ってる。敬だって、欲しがっているじゃないか」
「そんなことっ・・・」
「労働奉仕だって言っただろう?」
人の悪い笑みが降ってくる。
「労働って、まさかこんな・・・」
「それに、適度の運動は健康にいいもんだぜ」
そう言いながら、ルシュディーの手がベルトにかかり、俺は大いに焦った。
何か言わないと・・・気を逸らすようなこと・・・。
「ねえ、ルシュディー・・・どうして俺にあんなこと言ったの?」
ルシュディーがふと動きを止める。
「あんな事?」
「だから・・・昨日、俺にプロポーズしたでしょ?」
言ってからしまったと思った。
所詮、冗談でしかない会話の流れから来る軽い言葉・・・また、自分から蒸し返すなんて。
「そうだったか?」
「え、・・・したでしょ?」
しかし、よもや覚えてすらいなかったとは。
「そんなこと言ったかなぁ・・・」
俺に圧し掛かったまま、深々とルシュディーは考え込んでしまった。
「もう、いいよ! 退けろ! あっち行け!」
「ははは・・・冗談だって。したよ。しました。愛してるよハニー」
口づけされる。
俺はその頬を引っぱたく。
しかし今度はキスの雨霰が返ってきた。
完全に遊ばれている。
「嘘つけ! 信じられるかバカヤロー」
今度こそ本気で暴れる俺の身体を、ルシュディーも負けじと押さえ込み、再びベルトを外そうとしてくる。
そのとき、外で歓声が起きた。
「ほう・・・」
ルシュディーがしばらく動きを止めて、吐息混じりに感嘆の声を洩らした。
彼の視線を辿って、俺は斜めに喉を反らし、ガラス越しに外を見る。
そこには放射状に夜のパリへと光線を放つ、まばゆいばかりの大きなエッフェル塔が、逆さまに立っていた。
「いい眺めだな」
「うん。・・・綺麗だね」
「馬鹿・・・こっちの話だ」
そう言うと、再びルシュディーが首筋に顔をうずめてくる。
焦らすようなその感触と、欲望を孕んだ腰の昂りと。
目の前に揺らめく、鉄塔の優美な光景に、俺は恍惚としていた。


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