『Take Off』
定刻通り、正午に成田を出発したロンドン直行のコードシェア便は、現在シベリア上空あたりを航行している筈だ。
旅行シーズンを外れた平日のフライトであるせいか、機内には空席が目立ち、夕食直後の時間帯でさえ、エコノミー席近くのトイレの前で列が作られることはない。
それが不幸中の幸いと言えば、そうなのだろうか。
「畜生・・・火傷になってるじゃないか!」
狭い機内のトイレで、無様にも下着姿になった俺、黒滝畝傍(くろたき うねび)は舌を打ち鳴らしながら、つい先程、いれたてのコーヒーを被ってしまった自分の足を、恨めしい思いで眺めた。
濡れて肌に張り付いたボクサーパンツが気持ち悪い。
大事な部分はどうにか無傷で済んだが、白い下着の裾は茶色い染みになり、脚の付け根から太腿にかけての皮膚が、直径10センチほどの大きさで赤くなっている。
トイレットペーパーを束ねて濡らし、そっと患部に当てた。
「つっ・・・ったく、あの野郎!」
ズキズキと神経へ響いてくる痛さに顔を顰めつつ、俺に怪我をさせた張本人を声に出して呪う。
そして鏡に映った情けない姿の自分に気づき、そこへ至るばかばかしい経緯を思い返して溜め息を吐いた。
彼女、京終明日香(きょうばて あすか)からのメールに変化が現れたのは、この2週間ほどのことである。
俺と明日香は、高校以来の仲ではあるが、付き合いだしてからは3ヶ月しか経っていない。
最初は互いに気の合うグループの一人でしかなかった俺たちは、卒業して以降、だんだんと二人で会うことが多くなり、あるとき、飲みに行った帰りに彼女のマンションへ立ち寄って、どちらからともなくキスをした。
翌日には身体の関係を持ち、そのままなんとなく付き合うようになったのだ。
付き合い始めたときには、すでに明日香の留学が決まっていたので、長期に亘る別れは淋しかったものの、とくに反対したことはなかった。
それでも一応のけじめをつけるつもりで、出発の3日前、漸く俺は明日香に自分の気持ちをきちんと言葉で伝えた。
後先もいいところで、今さら何事かと笑われるかもしれないと思ったが、明日香は真面目に話を聞いてくれ、そしてとても喜んでくれていたように見えた。
そのときに交わした、毎日メールを交換しあうという約束は、今もきちんと守られている。
だから、たとえ離れていても俺には明日香が身近に感じられたし、だからこそ明日香とあの男の関係がどんどん近くなっていくことが、手に取るようにわかってしまったのだ。
最初、俺は彼女のメールに登場するジャッキーという名前を、ジャクリーンの愛称であり女だと思って読んでいた。
それもケヴィンという彼氏からドメスティックバイオレンスを受けている、憐れな女だと。
なぜなら、そのようなことが最初の方で、確かに明日香のメールには書かれていたからだ。
そんな男とは別れるべきだと思いながら、明日香が教えてくれるジャッキーに関する報告を毎日読んでいたが、実際にまもなくその通りになったらしい。
要するに明日香は、ジャッキーの恋愛相談相手になっており、適切なアドバイスをしていたようなのだ。
ジャッキーの本名がジョンであることを知ったのは、今から2週間前。
二人は仲間うちのハロウィン仮装パーティーに参加した。
明日香は魔女に、ジャッキーはミイラ男に扮していた。
そしてジャッキーは、『ジョン・ドゥ』と名前が書かれた玩具の墓石を持っていたのだが、人と会うたびに「改姓したんだ」と言っては、相手を笑わせていたというのだ。
俺はこのときに、漸くジャッキーという呼び名が、ジョンの愛称でもあることを思い出した。
その後も明日香のメールには、ジャッキーが毎日のように登場した。
ジャッキーは恋人と別れたばかりの筈だというのに、とても失恋に苦しんでいるとは思えないほど、明日香との日々を、楽しんでいるように俺には感じられた。
だから、俺はついに決心したのだ。
このミイラ野郎に一度会って、俺の恋人に手を出すなと、直接きちんと言ってやらねばならないと。
02
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