金属の小さなシンクに溜めた水から、ジーンズを取り出して眺める。
濡れた状態で見る限り、それほど染みが目立ちはしないものの、乾けばどうなるかは想像がつかない。
念のために手洗い用の洗剤を浸して汚れた部分を擦ったが、効果が期待できるとは思えなかった。
それでもいい加減にトイレを出ないと、乗務員に怪しまれるだろう。
俺は諦めてジーンズの水気を絞ると、それに足を通した。
「うわ・・・」
濡れた感触の気持ち悪さと、太股の腫れが疼いて、堪らず顔を顰める。
狭いトイレでさんざん水を使い倒したため、足元の床がびしょ濡れだった。
これもきちんと掃除してから出ないといけない。
不意に扉が動いて息を飲む。
「何で・・・!?」
次の瞬間には入り口が大きく開き、焦りも顕わに顔を上げた。
膝下に固まっていた分厚いデニム生地が足枷となって、俺は下着姿のままバランスを崩し、壁に手を当てて身体を支えた。
慌ててトイレへ駆け込んだせいか、そういえば鍵をロックした記憶がない・・・何んてことだ!
「すいません、あの・・・実は、コーヒー零して・・・」
なぜか乗務員が様子を見に来たのだと思っていた俺は、咄嗟にそんな言い訳を日本語で口走っていたが、そこに立っていた人物の顔を見て絶句した。
「おい、大丈夫か? これ、乗務員から貰ってきてやったぞ」
そう言いながら男はグラスへ山盛りに入った、ブロックアイスを見せると、トイレへ入室して扉を閉めた。
男の背後でカシャリと乾いた施錠音が鳴り響く。
「あ・・・あの・・・ええっと・・・」
既に自分が入っているトイレの個室へ、さらに他の誰かが入ってきた現状への理解に、頭が追いつかない・・・・しかも、なぜその状態で施錠されたのだ?
俺は混乱しながら男の顔をぼんやりと見上げた。
天井に届きそうな長身と、短く刈り込んだ黒髪、鍛えられた太い首に、革の臭いがプンプンと漂ってくる、上質そうな黒いライダースジャケット。
それがよく似合う、逆三角形のたくましい上半身と、そして黒デニムに包まれた長い脚。
「あ〜あ・・・、すっかり火傷になっちまってるな・・・」
「ちょ、ちょっと・・・うわあっ!」
大の男が二人入っただけでもトイレは一杯だというのに、目の前の彼が巨体を屈めるようにして俺の脚へ手を伸ばしてきた。
咄嗟に後退りをしようとした俺は、便器へ脹ら脛をぶつけ、その上へ尻餅をつくようにして座り込んでしまった。
「ああ、そうだな・・・そうやって、座っててくれると助かる。・・・ちょっと冷たいが我慢してくれるか」
「ひやぁっ・・・!」
正面に屈み込んだ彼は、俺の脚を押さえると、ブロックアイスを赤く腫れた場所へ宛がってきた。
冷たさに喉から変な声が出る。
それを聞いて、男が苦笑したのがわかった。
この男こそ、俺をこんな目に遭わせた張本人・・・ジョニーである。

 

ジョニーは会ったときから、怪しい男だった。
「君、日本人? どこに住んでるの?」
英語の発音を聞く限り、恐らくはイギリス人であり、これから故郷へ帰るのであろう彼は、見知らぬ俺に馴れ馴れしく話しかけてきたのだ。
出発ロビーで明日香に「これからそっちへ行く」とメールを打っていた俺は、思わず眉根を潜めて彼を見た。
「はあ・・・東京ですけど」
厳つい体格に、ハードな装い・・・それらに似合わぬ、軟派な言動。
「東京か! それは偶然だね」
「そうですか・・・あなたも東京に住んでいらっしゃるんですね。それじゃあ、俺はトイレへ行くので・・・」
成田空港にいれば、東京に住んでいる日本人など、少しも珍しくはないだろう。
変な外人に絡まれたと思った俺は、適当にあしらって席を立とうとしていた。
「いや、俺はこう見えても外人だからね。でも、俺の友達である日本人が東京出身なんだ」
「まあ、あなたが外人であることに、特に驚きはないのですが・・・そうですか。そしてなぜ、俺に付いてくるのです?」
つまり、そのジャパニーズ・フレンドと俺の出身が同じ東京であることが、偶然と言いたいらしいのだが、それがどうした。
「俺もトイレに行こうと思ってさ。俺はジョニー。君は?」
ジョニーが求めてきた握手を、俺は無視するつもりだった。
誰が初対面の怪しい外人へ、名前など教えてやるものか。
「それじゃあ、お先にどうぞ行ってらっしゃい。寄るところを思い出したから、俺はこれで・・・」
そのとき、隣のゲートから、それこそ偶然に会ってしまった知り合いが、俺に手を振りながら走ってきた。
「黒滝ー! おーい、黒滝畝傍じゃないか、久しぶりだな〜!」
「嗚呼、先生・・・」
それはこれからハワイへ行くのだという、高校時代の担任だった香芝當麻(かしば とうま)教諭と、音楽担当の三郷(みさと)夫人・・・旧姓、十津川(とつかわ)先生であった。
二人は先月結婚したばかりの、新婚カップルである。
「なんだよ黒滝、お前は同窓会にも来ないで・・・、でも元気そうだな! 大学ちゃんと行ってるか?」
地声が人一倍大きい香芝先生は、グローブのように大きな手で俺の背中をドンと叩き、ガハハと一人で笑った。
俺は息が詰まって咳き込みそうになる。
「はあ・・・すいません。学校はちゃんと行ってますんで、安心してください」
同窓会が開かれたのは2週間前・・・つまり、俺が明日香の浮気を疑いはじめた頃のことで、とても高校時代の仲間と飲み騒ぐような気分じゃなかったから欠席したのだ。
どうやら心配してくれていたらしく、申し訳ないと思った。
香芝先生と十津川先生が付き合っているという噂は、俺たちの在学中から一応あった。
しかしそういう様子を生徒には、ほとんど見せていなかった筈だ。
それでも目敏い連中がクラスに何人かいて、彼らが休日にデートを重ねる二人を目撃し、俺たちへ逐一報告をしてくれていたのだ。
いつも同じ連中が教えてくれていて、今思うと週末のあいつらは、それ以外のプライベート行動を取っていなかったのではないかという気がする。
ともあれ、彼らのお陰で噂は本当らしいということは頭で理解していたのだが、それでも実際に結婚したと聞いたときは、それなりに驚いたものだ。
それも十津川先生のお腹を見る限り、どうやらデキ婚である・・・我が恩師ながら呆れた男だ。
「京終さん、イギリス留学中なのよね。ここにいるってことは、ひょっとしてこれから会いに行くの? 京終さんによろしくね」
大きくなりはじめたお腹に手を添えながら、十津川先生が言う。
「はい、伝えておきます」
どうやら俺たちのことも、高校時代の仲間を通じて、すでに知られているらしかった。
「まったく、お前らは在学中には付き合ってる気配も見せなかったくせに、裏でコソコソと上手くやりやがって。おいこら、京終を泣かせんじゃねーぞ!」
「だから、付き合い始めたのは最近ですって・・・。っていうか、今のセリフ、そっくりそのままお返しします。先生こそ十津川先生のこと、大事にしないとダメですよ。赤ちゃんも生まれてくるんだから」
「まあ、黒滝君ったら、優しいのね」
「ばーか、もう三郷は俺の奥さんだから、十津川じゃなくて香芝だよ。お前らもさっさと結婚しろよ」
「早いですよ・・・まだ俺たち学生だっつうの」
なんだかんだと騒ぎながら、ひとしきり先生たちへ挨拶を済ませた。
ふと気が付くと、遠慮をしてくれたのか、ジョニーはどこかへ消えていたようだった。
俺は安心して、改めてトイレへ寄って用を済ませる。
戻ってみると搭乗が始まっていた。
明日香からの返事を待ちたかったが、残念ながら時間切れだ。
よく考えたら、向こうは真夜中だった。
携帯の電源を落として、俺も機内へ向かう。
チケットを見ながら席へ着いてみると、よりにもよって隣が変質者だった。
「やあ、黒滝畝傍・・・また会ったね!」
しかも、しっかりとフルネームを覚えられている・・・おそらく先生達との会話を聞かれたせいだと思うが、それにしても耳が良すぎだろう。
「・・・・・」
俺は無言で、窓際の席へ収まる。

 03

☆BL短編・読切☆へ戻る