「掌を返して左手を鞘に。撫でるように上へ持っていき、鯉口を切る。右手を柄へ。そのときに腿を内側へ絞り込むように膝を寄せて、背筋は伸ばしたまま腰を浮かせる。同時に送り鞘、引き鞘・・・柄頭を正中線上へスーッと持っていき、切っ先三寸まで来たところで・・・、あ、朝倉さん、引きが甘い。もっと鞘を十分に引いて。ほら、もっと・・・」
目の前で模範を見せてくれていた鴻巣成美(こうのす なるみ)が、とうとう立ちあがってやって来た。
赤い袴が立て膝を突いて、俺、朝倉光政(あさくら みつまさ)の隣に身を屈める。
「これ以上引けないよ」
「ほら、もっともっと!」
小さな少女の手が俺の鞘のまん中辺りを握りしめて、強く後ろへ引っ張られる。
スルンと刀が抜けた。
「あれ?」
「ほらね。刀は右手で抜くんじゃないよ。鞘を引いて抜くの」
「うーん、頭では分かってるんだけど・・・」
「栗形が帯に当たるまで、目一杯鞘を引いて・・・」
隣で成美が手本を見せた。
俺は見よう見まねで抜刀の練習をする。
「朝倉さん、半身になってる。上半身はあくまで正面へ向けて、柄頭は正中線上に・・・もっと上。柄頭はね、これから切る対象に向けるものなの。ここを切りますよと敵を牽制する。鞘を引く。切っ先三寸まで来たら自然と刀身が抜けるから、・・・そして柄を小指から順に握り込んで横一文字」
裸足の右足をトスンと床へ一歩踏み出しながら柄を握り締めると、自然と刀は空気を切り、勢いよく仮想敵の胸元を横一文字に切りつけた。
「倒れた敵を追い込むように、刀を振り冠る。そのとき切っ先は、自分の左耳の延長線上辺りを通る軌道で。次に左手を柄へ添える。剣道とは逆で、左手はあくまで添えるだけ。そして足をさらに踏みこんで刀を振り下ろし、・・・敵に止めを刺す。振り下ろす時は、雑巾を絞るような感じで柄を握りこんで。切っ先の高さは床から約25センチ。拳は膝頭の内側で止める」
刀がシュンと風を切り、倒れている仮想敵に止めを刺した。

朝倉君・・・。

清廉な道場の床へストライプスーツの死体が蘇りそうになり、小さく頭を振る。
「朝倉さん、どうかした?」
「いや、髪が目に入りそうになっただけ・・・続けてくれる?」
フラッシュバックに襲われそうになった俺を大して疑うこともなく、少女は指導を続けた。
「左手を柄から離して、指先を揃えると鯉口の下辺りへ・・・目線は倒れた敵から離さず、残心を十分に。右掌を上に返して円を描くように胸を開く。腕を真横に伸ばしたときには掌を開き刀は親指で柄を挟むような感じに、・・・血が刃を伝って切っ先から流れ落ちる角度で。そのまま指先を軽く伸ばした状態でこめかみへ。こめかみへ来た時は、海軍の敬礼」
そう言いながら、平成生まれで現役中学生の成美が「海軍の敬礼」をして見せた。
海軍なんてご両親だって知らないだろうに。
「柄を小指から順に握り込むように、同時に肘を下向きに伸ばして大血振り。同時に立ち上がる・・・このとき居合腰」
居合腰。
両足は並行線上に少し開き膝は伸びきらない状態で僅かに腰を落として、背筋は伸ばす。
「右足を大きく後ろへ引いて、納刀へ・・・腰を徐々に落としながら・・・右膝を床へ突くと同時に収め切る。残心を十分に立ちあがりながら、右足を揃えて居合腰。そこからゆっくりと直立、目線を戻して、左足で一歩下がる、はい、ここまで」
「やれやれ」
「じゃあもう一回やってみて、見ててあげ・・・あーっ、こら先生! 違う違う・・・介錯でそんな派手に刀振り回しちゃダメ!」
成美が血相を変えて叫んだ。
ワックスが光る体育館の床を白い足袋を履いた小さな足が、ドンドンと音を立てて走って行く。
「へー・・・アイツもう介錯なんかやってるんだ」
入り口の方を振り返ると、黒い紋付き袴姿で稽古をしている前波景範(まえば かげまさ)が、成美に介錯の納刀を注意されていた。
「はははは、先生形無しだな」
「あ、橘さんどうも」
「やあ、朝倉君こんにちは。また前やってるの? 成美ちゃんに随分、しごかれてたみたいだけど」
橘信二(たちばな しんじ)。
無双直伝英信流五段。
昨年定年退職した、時代劇好きの気のいい小父さんだ。
居合は60代になって始めたらしいが、現役時代はバリバリの警察官で、剣道、柔道ももちろん有段者だ。
それでいて黒い袴が良く似合う長身のハンサムガイだから、小母様方の人気者である。
パッと見た目はせいぜい40代後半。
「はあ・・・どうも、ちゃんと出来てないみたいで。前波君はもう介錯なんてやってるんですね」
「うん。先週からね・・・八重垣やって、介錯やって・・・月影はその前にやってたし、抜打ちは毎回やってるから、あとは受け流しと附込と追い風で正座全部かな」
「そんなにやってたんだ・・・」
どうやら橘も最近、前波をよく見ていたようだった。
錬士以上の参加が少ないときは、俺達入門者を指導する成美のように、上位段者が下の者の面倒を見てくることも多いが、橘はどちらかというと自分の稽古をする以外は誰かとお喋りしているイメージしかなかったので、少し意外に感じた。
「焦ることないって、初段はあくまで4本なんだから。前、右、左、あとは前切で、べつにいいじゃない」
正座の業は、全部で11本。
さきほど俺が成美に指導されていたのが、1本目の前といい、右、左、後ろは、業を始める身体の向きが違うだけで、あとの流れは前と殆ど同じ。
つまり、前さえしっかり身体に覚え込ませれば、右、左、後ろは応用でなんとかなる。
しかし残りの7本は流れがまったく異なる。
初段の審査は、この正座の業から3本と刀法の前切の、合計4本だから、もちろん橘の言う通り、前切、前、右、左でも構わない。
だが、11本出来る上でのその3本の選択と、それしか出来ない必然的な3本というのでは、全然意味が違うだろう。
なんというか、俺がやっていることはテスト前の一夜漬けに似ている気がする。
「それはそうなんですけど・・・」
それに、なんとなく前波に置いて行かれるような気がして気に入らなかった。
前波を見る。
介錯の練習をしていたと思ったら、いつの間にか抜刀の練習になっていた。
どうやら前波も鞘引きができていないみたいだ。
同じところを成美に注意されている。
「ほらね、欲張ったところであんなもんだって。あ〜あ、あれじゃあ先生の立つ背がないなぁ」
「ははははは・・・」
橘の茶化しに俺は軽い笑いを返した。
慰めてくれているんだろう。
橘のさりげない優しさが身に沁みる。
前波は俺と同時期に入会した、居合歴3カ月の無段。
入会前の見学のときにも一緒だったらしいのだが、俺は連日の残業明けで頭がボーッとしていたのか気付かなかった。
先生といっても、もちろん居合の先生という意味ではなく、バイトで学習塾の講師をしていて、どうやら成美は塾の教え子らしいのだ。
知らずに入会した前波が、翌週稽古にやってきた生徒と鉢合わせになり、しかもその生徒が新入り会員の指導を担当していて、ぶったまげたというわけだ。
前波の本業はアニメや漫画好きの大学3年生。
居合を始めた理由も単純で、人気漫画に出て来る死神の格好が、居合道の正装とよく似ているから、なんだそうな。
だから稽古の時から、彼は黒い紋付き袴を着用している。
ぶっちゃけて言えばコスプレ気分だ。
初めは俺も同じクチだと思われていたらしく、「刀が変身したらカッコイイんすけどねぇ」などと、稽古中に突然話しかけられて、なんのことだかさっぱり判らなかった。
挽回、挽回って、何を挽回したいのかと聞き返したこともある。
どうやらその漫画に出て来る何かのキーワードだったらしく、意味が判らないまま腹を抱えて笑われて、少々気分が悪かった。
第一印象はそんな感じであまり良くなかったものの、付き合ってみるといい奴で、居合も俺なんかよりずっと真摯に取り組んでいる、真面目な男だった。
成美も指導するとき以外は前波に懐いているところを見ると、塾でも人気があるのだろう。
俺の通っている居合道場は、概ねこの二つのタイプに分かれているようだった。
時代劇好きの小父さん、小母さんか、漫画に影響された若い学生か・・・ちなみに俺はそのどちらにも属さない。
道場の名前は「士英館(しえいかん)」と言って、流派は無双直伝英信流。
足利時代末期、奥州の住人最上家の家臣林崎甚助重信公が、山形県村山市楯岡の林崎明神に参籠して神明の加護により抜刀術を得て、これを林崎夢想流と唱え居合中興の祖と云々・・・。
ちなみにこのあたりの居合の沿革は、初段の筆記試験に出るらしく、俺が覚えているのは今のところここまで。
あと2行ほどある。
「ところで朝倉君、今度の日曜、暇?」
橘が聞いてきた。
「何かあるんですか?」
橘が誘ってくるときは、行事か飲み会のどちらかしかない。
ダブルのときもある。
「お城祭りだよ」
行事の方だ。
「お城祭りって城西公園のヤツですか? 演武か何かあるんですか?」
「試し斬りだよ。朝倉君、まだ行ったことないでしょ? 面白いよ」
「あーでも、正座の業ひとつ満足にできないのに・・・」
みんなの前で、まして試し斬りってことは、模造刀じゃなくて本身じゃないか。
納刀で手間取っているような俺が、真剣なんて触っていいものだろうか。
「いやいや、大丈夫だよ。居合やったこともない人も沢山来るし・・・それに朝倉君、自分で思ってるより全然筋が良いよ。成美ちゃんは厳しすぎるだけで・・・」
「有難うございます。・・・でも、実はその日は予定があるので、遠慮します」
「そう? 綺麗な華は多い方がいいのに、残念だなぁ。また今度おいでよ」
「はい、そうします」
華の意味は判らなかったが、適当に話を合わせて稽古に戻った。

03

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