大学を卒業して4年間、俺は別の携帯会社のカスタマーセンターにいた。 朝倉君・・・冷たいじゃないか。 耳の奥にはりついたいやらしい声。
センターはオフィスビルの4階から7階にかけて入っていて、俺のいた審査課は7階にあった。
入社して4年目の春、大きな異動がありセンター長が変わった。
新しいセンター長の仁礼良智(にれ よしとも)はまだ30代後半のハンサムな男で、気さくで明るく、派遣を含めた女子社員達がすぐに彼へ逆上せあがった。
だがまもなく、飲みに行った先でホテルに連れ込まれそうになっただの、給湯室で身体を触られただのという、良くない噂を頻繁に聞くようになった。
その仁礼から俺が標的にされるようになったのは、仁礼の就任から半年ほど経った頃。
元いた4階の登録センターから審査課へ異動になり、センター長と顔を合わす機会が増えたことがきっかけだった。
「君が朝倉君? 登録センターと色々勝手が違って大変だろうけど、頑張ってね」
肩に置かれた左手。
薬指に結婚指輪がないことに俺は気付いた。
確かセンター長には奥さんと子供がいた筈なのに・・・仕事中はしない主義なんだろうか?
審査課の仕事はまず定時に終わらなかった。
ルーティンワークは派遣社員がやってくれるが、大きな事件が起きると、その資料集め、他社との情報交換にシステムへのフィードバック、過去に登録があがった顧客から似た案件の洗い出し、警察の対応等。
残業で退社が12時を回ることも珍しくはない。
ある程度トレンドはあるが、繁忙期などの予測のつかない仕事であるだけに、慣れるまでは骨が折れた。
人為的アクシデントによる処理違いも、残業時間を増やす原因のひとつだった。
「オペミスか・・・この間フィードバックしたばかりなのに、もう見逃してる・・・ええっと担当者は」
審査ミスにより登録が完了していた案件のオペレーターを確認する。
「またか彼女が・・・」
森村碧(もりむら みどり)。
審査課の派遣社員で中堅スタッフの一人だ。
1日の処理件数が平均より多く、けして仕事ができないオペレーターではないのだが、このところ、重大なミスをときどきやらかしている。
それも決まって俺が遅番のときだった。
まさか、わざとではないと思うのだが。
「お疲れさま〜、朝倉君、まだ残ってるの?」
帰り支度を終えた仁礼が肩を叩きながら聞いてきた。
モニターの時計を見ると、また日にちが変わってしまっていた。
「センター長、お疲れ様です」
「何それ・・・偽造書類?」
手がそのまま肩で止まっていた。
こういうことはよくあるので、俺は気にせず会話を続けた。
「ええ。こないだから暴れまわってるグループの一人で、他社でも被害が起きてるみたいですね。ちゃんと情報はフィードバックしていた筈なんですけど、登録が上がっちゃってたみたいで・・・」
「ふうん・・・よく出来てるね。どこが違うの?」
「色々違いますよ。名前のフォントや配列、・・・それとこの住所ですが、調べると他社で貸し倒れが100件以上ある法人と同じで、その代表者の名前がコイツと同じでした」
「へぇ・・・他にも色々ありそうだね」
「ええ。とりあえず住所と名前、それと法人名でひかかるように網はかけてもらったんですが、うちで過去にあがった中にも・・・・・っ!」
話しながら仁礼へ見せていた回収済みの原本をダンボールに仕舞おうとしたところで、俺は息を呑んだ。
「どうしたの?」
「いえ、べつに・・・」
肩へ置かれていた手がいつのまにか腰へ下り、すっと尻を撫でて離れて行った。
「まあ、あまり無理しなさんな。それじゃ、お先」
「・・・お疲れ様です」
このとき俺は気のせいだと自分に言い聞かせた。
しかし、その後まもなく俺は、仁礼から頻繁にセクハラを受けるようになっていた。
下半身に触れられるぐらいは序の口で、二人きりのエレベーターでキスをされそうになったり、業務中にメールで夜の誘いを受けることも度々だった。
トイレで個室へ連れ込まれて迫られたことも一度や二度じゃない。
付き合わされる同僚には嫌がられたが、仁礼がいるときは、俺はなるべく残業で一人にならないように注意をした。
本気でノイローゼになりそうだった。
またその頃から、森村の勤怠やオペミスが目に余るようにもなっていた。
オペミスはやはり、決まって俺が遅番の時に起きていた。
なぜ彼女がそのように変わったのかは不明だったが、俺は決断するしかなかった。
派遣会社へ事情を話し、その月いっぱいで彼女の契約更新を止めてもらうことになった。
決断から数日後、家の事情で同僚の橋詰が退社することになり、審査課で送別会を開くことになった。
異動以来世話になっていた同僚であるだけに、俺も参加はしたかったが、一方で酒が入った仁礼に、何をされるか判らない恐怖が二の足を踏ませた。
結局、同僚へは後日個人的に仲間内の飲み会を開こうと持ちかけて、業務が滞留していることを理由に、俺は会社へ残ることにした。
遅番の派遣社員達も帰り、一人で仕事を片付けて退社出来たのは、10時過ぎだった。
疲れていた俺は、執務室を出たところで背後に立っていた人の気配にまったく気が付かなかった。
セキュリティーカードを通しドアを閉めて、廊下を振り返った俺は、驚きのあまり心臓が止まるかと思った。
「センター長・・・どうして!?」
ネクタイを緩め、シャツのボタンを二つ目まで開けただらしない格好で立っていた仁礼は、酒の匂いをプンプンと漂わせながら俺に近づいてきた。
「朝倉君・・・冷たいじゃないか」
「酔っていらっしゃるんですか・・・タクシーをお呼びしますから・・・・・・っ!?」
素早く脇を通り抜けようとした俺の腕を、仁礼は強く捕え、後ろから覆いかぶさるように俺を抱きこんだ。
「そんなに嫌かね・・・君はいつだって、私を避けようとする・・・今日だって、どうせわざと会社へ残ったんだろう? 仲の良い橋詰君の送別会だというのに、君が参加しないなんて不自然じゃないか・・・」
「放してくださいっ・・・いや・・・嫌だっ!」
「私が怖かったからか? ・・・私に何をされると思った・・・こういうことか・・・?」
細かいストライプが入った高そうなスーツの長い腕が、俺の上半身を忙しなくまさぐる。
ネクタイを緩められ、シャツのボタンを外されそうになって身を捩った。
力任せに引きちぎられたボタンが、いくつか床に弾け飛ぶ。
「センター長・・・やめてください・・・お願いだから・・・放せ・・・っ!」
俺は渾身の力で仁礼の身体を突き飛ばすと、廊下を走り抜けた。
尻餅を突いた仁礼がフラフラと立ち上がって、俺の名前を叫ぶ。
ホールへ出てエレベーターを呼んだ。
一つの扉がすぐに開いたが、閉じるまでのタイムラグで仁礼が追い付く危険性の方が高そうだった。
そのままホールを抜けると階段に向かい下へ駆けおりる。
俺の名前が何度も背後で呼ばれていた。
6階の踊り場を通り過ぎ、5階へ向かった。
そのとき、悲鳴に似た男の叫び声と何かがぶつかる大きな衝突音が階段に響き渡る。
「センター長・・・?」
俺は一瞬立ち止まり、しばし五感を働かせて上の様子を伺った。
かなり酔っていたから、足を踏み外したのかも知れない。
階段を少し上がりかけて躊躇する。
だが、芝居だったらどうしよう・・・今度こそ、無事じゃすまないかも知れない。
結局俺は踵を返すと、そのまま5階へ下りた。
追って来る様子もなかったためエレベーターホールへ向かうと、下向き矢印のボタンを押す。
ちょうど下から上がって来る籠があったので、その扉の前に立って待ったが、それはひとつ下の階で停止してしまい、替わりに隣が開いた。
籠へ乗り込みすぐに扉を閉める。
一階へ着くまでの数十秒が何時間にも感じられて苛々とした。
心拍数があがっている。
突然チャイムが鳴り、籠が停止した。
電光表示は4階。
畜生、誰だこんな時間に・・・!
思わず自分の服装を見下ろし、慌ててシャツの裾をベルトへ押し込んで、ネクタイを締め直した。
ボタンが2つ無くなっていることに気が付き舌を打つと、隠すようにジャケットの前を閉める。
間もなく扉が開いた。
巡回中のガードマンだった。
間一髪、間に合った。
「お疲れのようですね」
ガードマンに顔色が悪いと指摘されて、適当にごまかす。
彼は3階で降りると、引き続き巡回に戻った。
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