「おい、いきなり何だ・・・君は誰だ?」
前波の合図を受けて俺は、掴まれていた腕を振り払い、前波の隣へ移動した。
部屋の入り口に立っていた前波が、俺を庇うように一歩前へ進み出る。
「そろそろ録音止めて頂いていいですよ。それと服を直してください」
「ああ、そうか」
俺はジャケットの内側に挿していたペンタイプのレコーダーを取り出し、小さなボタンを押して前波に返却した。
ついでにシャツのボタンを上まで留める。
前波はイヤホン端子を差し込んでレコーダーをその場で再生し、録音した内容を確認すると、納得したように頷いた。
そしてずっと耳から垂れ下がっていたイヤホンを、ようやく外した。
「おい、それは・・・まさか!」
見る見る鴻巣社長の顔が蒼ざめてゆく。
「やっとお気づきになったみたいですね・・・あなたが朝倉さんの上半身を、そのいやらしい手で触りまくったときには、ちょっとヒヤヒヤしましたよ。さすがに自社製品だと気付くんじゃないかとね。朝倉さんも何をトチ狂ったのか、自分から胸を触らせるし・・・」
と言って俺をジロリと睨んで来た。
「ごめん、うっかりしてた・・・」
謝ると、前波がやれやれといった感じに片眉をあげた。
「・・・でも、朝倉さんの色気の方が勝っていたのか、まるでお気づきにはならなかったようですね」
「私を嵌めたのか?」
「俺が嵌めた、だって・・・? それはこっちのセリフですよ。商談の席で酒に薬を入れられて、犯されそうになった・・・どの面をさげてあなたが俺を非難できるんです?」
「そうかなるほど・・・あの後君は、その男に抱いてもらったのか? それで誘惑された彼が君に協力して、こんな茶番を仕掛けてきたというわけだな。薬でトロトロになった君の身体はさぞかし若い彼を虜にしたんだろう」
「なんだとっ・・・」
「朝倉さんやめましょう」
目の前で辱めを受けて震える俺の拳を、前波が制止してきた。
だが、今まで我慢していた怒りが一度堰を切って流れると、今度は収めるのが難しかった。
「放してくれ、前波・・・」
「愚かな挑発に乗っては、朝倉さんがますます辛い思いをするだけですよ。・・・それより鴻巣社長、自己紹介が遅れました。僕は前波景範と申します。士英館では西園寺会長にお世話になっています」
「・・・士英館?」
鴻巣の顔色が変わった。
「ええ。ついでに朝倉さんも士英館の所属だということはご存知でしたか? そうだ、それよりもいつも面倒を見ていただいているお嬢さんのことのお礼を申し上げないと。ナルミン・・・ああ失礼、つい塾の癖で。士英館で入門者の指導をされている成美さんに、僕ら新入りは本当にいつもお世話になっているんですよ。彼女は西進スクールでも人気者で、面倒見が良いからクラスのみんなが成美さんを慕ってるようです。宿題も忘れたことがないし、明るく真面目で良いお嬢さんですね」
「ええと・・・前波は西進スクールの講師のバイトをやってます」
すっかり口を開けてポカンとしている社長に、一応俺から説明した。
「朝倉さん、ご解説ありがとうございます。・・・ちょっと可愛げのない声だったのが残念ですが」
「いいから続けろよ」
確かに、少しぶっきらぼうになってしまったが、怒りがなかなか収まらないのだから仕方がないだろう。
「はい、それでは・・・これもナルミンから俺が借りてきたんです。授業中いつも彼女が机に置いているけど使ったことがないペンで、高そうだし、どうして使わないのかとこの間理由を聞いてみたんですよ。そしたらレコーダーだっていうから、びっくりするじゃないですか。どうやら授業内容を録音されていたようで・・・いやあ、知ったときは本当に恥ずかしかったです。・・・この『Frontier昴』って城東電機のオリジナルブランドなんですってね。本当に凄いなぁ・・・スーツのポケットに入れられるし、高品位ステレオマイク付で、原音を高音質のまま録音できるICレコーダーを採用し、最大24ビットのオーディオフォーマットが可能で、内蔵のフラッシュメモリで直接パソコンへの高速データ転送も可能、なんと驚きの防犯アラーム(110dB)付き・・・朝倉さん、これを引っ張ればよかったんですよ」
と言いながら、携帯ストラップのような紐をピンピンと引く真似をする。
どうやらその紐を引っこ抜くとアラームが鳴る仕組みらしい。
「おい、絶対にそれを引き抜くなよ・・・」
途端に鴻巣の顔を強張った。
110dBというのは相当の音量のようだ。
しかし、小型レコーダーに防犯アラーム搭載とは随分と画期的な組み合わせだ。
隠し録りの最中に誤ってスイッチを入れることはあまりないとは思うものの、万一のその機会が致命的のような気がするのだが・・・実際にどこまで売れたのか非常に気なる。
「これで1万円弱って、ええと、安いのか高いのかよく判りませんけど・・・とにかく、貸してくれって頼んだら何に使うのかと聞かれて、ごまかすのに苦労しました。それとも言った方が良かったですか?」
自社製品の絶賛は城東電機社長としては誇っていいものだったが、同時にそれは彼を強かに打ちのめしたことだろう。
「それは我が社のブランドオープン記念特別限定品でしかも奉仕価格だ・・・。君たちは一体何が狙いなんだ? 金か? それとも私を陥れたいだけか?」
下種な口から下種な言葉が吐きだされる。
「朝倉さん・・・ここはあなたから応えていただけますか? おそらくこの人を俺達は、自由に出来ると思いますよ。何しろ色々喋ってくれていましたからね・・・媚薬を使ったことやあなたを部屋へ誘ったこと・・・あなたに卑猥なことをさせようともしていましたっけ・・・妻子ある立場でありながら、男であるあなたを相手に。この録音データをマスコミへ売り渡せば、そこそこ良い値が付くでしょうし、この人を失墜させることもできます。どうします?」
「貴様っ・・・」
「鴻巣社長。あなたがソコモモバイルへ伝えた嘘によって、俺の上司が降格させられそうになっています。今日の事については何を言って頂いても結構です。最初に言ったとおり、個人として俺が勝手にやったことですから。でも、先日ホテルドルフィンで起きたことについては、発言を取り消してください。俺からあなたを誘ったなんて、嘘だと・・・あなたの勘違いだったと、会社へ訂正してください。そしたら・・・この録音データは今すぐあなたの目の前で消去すると約束します」
「朝倉さん・・・何言ってるんだ、そんなことしたらあなたは・・・」
「俺はいいよ・・・足利課長にも言われたけど、こんなことになったのは俺にだって非があるから。でも、それによって課長に迷惑をかけたことだけは耐えられない・・・訂正してもらわないと、俺じゃあどうにもならないから」
「朝倉さん・・・」
「昨夜・・・いや、今朝がたと言った方が正しいですが、私はうちの二宮から、ある法人契約案件について調査結果を聞かされました。それは先月、弊社と大口の契約をした法人顧客に関連する内容です。同じ月の初め、その会社の役員である4名の人物が、それぞれにどういうわけか法人契約を5回線ずつ行っていました。合計で20回線です。そのうちのある法人の代表者は2回線の個人契約も同時に行っていました。それらは全て、成立間もない法人であり、現在履歴事項証明書と代表者兼申し込み来店者の健康保険証および住民票という組み合わせで、まったく同じ時間帯に近隣の代理店で契約を行っており、その全てが1円の支払いもなく現在滞納をしています。さらにそのうちのひとつの代表者の名前と住所が、とある携帯販売店の代表者と同じでもあり、その販売店のホームページには中国語のページがあって、問い合わせ先に記載がある上海の電話番号が、中国の携帯販売店の電話番号と同じであり、その中国の携帯販売店のホームページでは、先月、大量契約をした法人名義や、現在滞納中の20回線のペーパーカンパニー・・・失礼、成立間もない法人名義で購入された最新機種と同じタイプのものが、沢山販売されていました」
「朝倉さん・・・どうしてそれを・・・そんな話が判ってるなら、なんでわざわざこんなこと・・・」
「俺はあくまでそういう話があるっていう事実を言っているだけだよ。これが城東電機さんの話だなんて言っていないし、仮に城東電機さんだとしても、関連性のある中国の携帯販売店で、同じうちの機種が大量に販売されていたというだけの話だ」
「けど、・・・今の話を聞く限りじゃ、それが偶然だって方が出来すぎだろ・・・」
「いや、単なる事実だ」
「朝倉さんっ・・・!」
そうなのだ。
確かにこれは城東電機が転売を行っている可能性につき、非常に疑わしい状況を示している。
だが、いくら疑わしいといっても、ただの可能性に過ぎないのだ。
これをもってして、鴻巣社長にあなたがたは転売をしている、とまでは言えない。
「まったく・・・君は本当に馬鹿だな。その青年が言っている通り、私に大金を強請ることだって出来るネタをそれだけ掴んでいるというのに、要求は発言の取り消しだけなのか? しかも今日の事を会社へバラしてもいいとは・・・そんなことをしたら、ますます君の上司が危なくなるだろう」
「ですから今日の事は俺個人で・・・」
「君がいくらそう言っても、あくまで君と私はビジネス上の付き合いだ。君とはそこまで親密な仲じゃない。・・・それに、転売の件については、私が聞いていても私は疑わしい」
「お認めになるんですか?」
「さあ。・・・疑わしいが、それを立証するのは君たちの仕事だろう。私は知らんよ」
「これだけ聞かされて、何を・・・」
「やめろ前波。社長の言う通りだ」
「でも・・・」
「ただ、その話を会社へ帰って喋られたら、私は無料サービスの恩恵を受けるどころか、ブラックリスト入りだろうね」
「場合によっては、それでは済まないと思います。携帯電話不正利用防止法違反等で逮捕される可能性がないとは言い切れません」
鴻巣は神妙な顔をした。
「そうか。・・・朝倉君、君はその可能性のために社会正義を貫くかね。それとも愚かな客に交渉のチャンスをまだ与えてくれるのだろうか」
「私の意見は・・・あくまで先ほど述べた通りです。私が昨夜二宮から聞かされた話をもってして、直ちに不正の立証は難しいと考えています。二宮の立場も同じです。ただ、社長のご返答如何によっては、やむを得ず会社へ報告させて頂き、担当部署が警察と連携して動くことになるでしょう」
「なるほど。・・・では私は、君の要求通り発言を取り消そう。もしもうちの会社に不法行為の事実があるとすれば、社長の私からやめるように進言すると約束もする。今日の事を会社へ話すつもりももちろんない・・・だいたいそんなことをすれば、君以上に私が困る・・・成美にバラされては堪らないからな。・・・前波君と言ったかな、君の話はそういうことなのだろう?」
「ご明察通りですよ、鴻巣社長」
前波がニコリと笑った。
「まったく、頼もしい恋人と先輩を持ったな・・・こんな男達が傍にいるのなら、君になど手を出すんじゃなかったよ。どうせそのレコーダーの中身だってこの場で消去すると言いながら、先にとったバックアップを手元へ残しておくつもりなのだろう?」
「うわっ・・・どうして判ったんです?」
なんだと!?
「入って来たタイミングから察して、君は部屋の外でここの会話を聞いていたのだろう。それなら、当然盗聴の受信機があるはずだ。そして受信機には大抵レコーダーが内蔵されている。君がそれを利用しないはずがないだろう・・・それに」
そう言いながら、社長は部屋をウロウロと歩きまわり始めた。そしてサボテンの植木鉢を動かすと、こちらを振り向いた。
手には親指サイズの黒い機器。
小型カメラのようだ。
「バレてしまいましたか」
「どうやって先に忍び込んだのか知らないが・・・・まあいい。成美には勝手に妙な商品を持ち出さないように、帰ったらきつく言っておこう」
そう言って、カメラのスイッチを切った。

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