(エピローグ) 11月第3日曜日、天気晴れ。 Fin
居合道連盟地区昇段審査会が催された。
会場は臨海公園駅前総合体育館の2階道場。
参加者は1000名強。
「朝倉君、こっちこっち」
30分前に到着し、先に更衣室で紋付き袴に着替えて武道場前に設置された受付へ行ってみると、すでに長蛇の列が作られていた。
「場所とっておいたから、ここに並んで!」
「こんなことして、いいんですか?」
と言いつつ、列のまん中辺りにいた橘と場所を交替する。
「言わなきゃ判らないってば!」
いや、言っているし・・・後ろの人たちの視線がとても痛い。
「橘さんは着替えなくていいんですか?」
開始は午前9時。
毎年ほぼ定刻通りに開会式が始まると聞いている。
橘はセーターにジーンズと、実にラフないでたちだ。
ピッタリとした感じのダークグレーのVネックセーターは、鍛え上げられた胸の筋肉を浮き上がらせて、お腹の辺りはなんとなく余裕がある・・・こういう60代に自分もなりたいものだと、つくづく思う。
本当に何を着てもカッコイイ小父さんだ。
「だって僕は受けないから」
「えっ、そうなんですか? なんで?」
「今日は初段から五段までだからね。六段以上はゴールデンウィーク中に別途開催だよ、知らなかった?」
そうなんだ・・・。
確かに、五段までだけでもこれだけの混雑じゃ、その方が賢明かも知れない。
「でもちょっと残念だな・・・凄い演武を期待してたのに」
「はははは、そうなんだ。まあ、僕でよければいつでも見せてあげるよ、道場でね。おや・・・」
「朝倉さん」
会話に割り込むようにして、すぐ後ろから名前を呼ばれた。
振り向くと、すでに受付を済ませたらしい前波が紋付き袴にエンジニアブーツという、酷い姿で仏頂面を見せながら立っていた。
必死に笑いを堪えたが、まあ自分も似たようなものだ。
役員の中には最初から正装で来ている人もいるが、そうでなければわざわざ草履や雪駄まで用意している者は少ない。
「前波君、早いね。もう済ませたの?」
「ええ、まあ・・・先に受付を済ませてから着替えたもので」
「ふうん。じゃあ朝倉君を待つ為に中には入らずここで見張っていたわけだ」
「別に、見張ってなんていませんよ・・・橘さんこそ、替わりに並んだりして朝倉さんには随分親切なんですね」
「おやおや、嫉妬かい?」
「誰がですか」
橘にからかわれて、前波が焦っている。
なんとなく、気になる。
これはひょっとして・・・。
「言ってくれれば前波君の替わりにもいくらでも並んであげたし、特別に二人きりで僕の演武も見せてあげるのに、まあ君さえよければだけど・・・」
「ちょっとっ・・・どこ触ってるんですか!」
勘違いではないようだ。
「はははは・・・・それじゃあ、可愛いナイトも現れたみたいなんで、小父さんは退散するよ。前波君もさっさと中に入りなさい、混雑を増やしちゃ他の人の迷惑だからね」
そう言いながら橘は、武道場の方へ向かってしまった。
「まったく油断もスキもない人だなぁ・・・」
「そうだね」
俺は前波を見上げた。
目元が赤いのはからかわれた焦りのせいか、羞恥のせいか。
はたまた、何か心当たりがあるのではあるまいな。
「それより光政・・・俺この間言いましたよね、橘さんと二人きりにならないで下さいって・・・いきなりコレですか」
「そう言われてもねぇ・・・俺の替わりに並んでくれていたらしいし、常識人として親切にしてくれた人を無下に無視するわけには・・・あ、すいません士英館の朝倉です」
喋っている間に順番が来たので受付を先に済ませる。
番号が書かれたバッチを貰うと列から外れた。
「今の話を聞いていても、何も思わなかったんですか? 下心丸出しじゃないですか。まったく馴れ馴れしいわ、おまけに光政のことまた誘い出そうとするわ」
「前波のお尻は触るわ」
「俺のは、からかわれただけです。話をごまかさないでください」
「からかわれただけ、ねぇ・・・」
今ならなんとなく前波が怒る理由が判ったような気がした。
考えたら当たり前のことだが、俺と違って真面目に稽古へ参加していている前波の方が、当然ながら橘との接触は多い。
橘は前波の前で俺のことをよく話しているらしいが、同期で年が近い俺の話は二人の共通の話題になるから、ネタにされ易いと考えたら至極自然だ。
もしも橘が、俺の見ていないところで、さっきのような接し方をしょっちゅう前波にしているとしたらどうだ。
ちなみに、橘は俺には話しかけて来たり、飲みに誘ったりはするが、触っては来ない。
誘われる先も別に二人きりの場所ではないし、今も二人きりになどなっていない。
むしろそう誘われたのは、前波よ、お前の方だ。
「俺、少しだけ前波の気持が判った気がするよ」
「判ってくれたらそれで結構です。もう俺を心配させないでくださいね」
橘は確かに危険だ。
「ああ。・・・お前もな」
「え・・・何が」
前波に自覚があるのかないのか知らないが、今夜あたりじっくりツッコんで吐かせてやろう。
「ほら、入るぞ」
軽い混乱を来している前波の腕を引いて、道場へ入った。
会場に入ると、混雑はさらに増えていた。
「うわ・・・なんだか立錐の余地もなさそうですね・・・朝倉さん、この辺に置いておきましょう」
前波に誘われて、入り口の傍へ荷物を置く。
似たような刀ケースが並んでいるから、間違えないように気を付けないといけない。
目印になるように、とりあえず下げ緒をファスナーから出しておいた。
あとから続々と人が来ていたため、ひとまず筆記用具だけを持って、その場を離れる。
「あ、いたいた、朝倉さん・・・」
「やあ成美ちゃん」
彼女の後ろに紋付羽織袴で正装をした初老の男性と、和服姿の中年女性が並んでいる。
成美はいつもの赤い袴の可愛らしい練習着から一転、黒い紋付袴でビシッと決めていた。彼女が二人を祖父と母だと紹介してくれる。
ということは、男性は士英館及び城東電機の西園寺会長で、女性は鴻巣社長の美子夫人ということだ。
俺達は両名にそれぞれ挨拶をした。
名刺を持って来なかったのが悔やまれる。
「朝倉君に前波君・・・いつも成美が世話になっているみたいだね」
会長が挨拶を返してくれた。
「いえいえ、そんな・・・こちらこそ」
ふと俺は、前に城東電機の女子社員から聞いていた、名刀コレクションの話を思い出した。
この機に話を振ってみると、会長は途端に嬉しそうな顔になり、いつでも見に来て良いと言ってくれた。
名刺は忘れたが、これなら名前を覚えてもらうぐらいは出来るかもと思い、俺はこっそりほくそ笑む。
しかし、いらないボタンを押していたとのだということにも、少し遅れて気がついた。
「よかったらこの後寄って行くかい? なに、一緒にうちの車に乗って行けばいい。実はこの間、凄い太刀が手に入ってねぇ、葵紋が入った江戸三代康継の・・・」
「お父様、そろそろ・・・」
話が長くなりそうだと焦りかけた頃、絶妙なタイミングで鴻巣夫人が口を挟んでくれた。
「それじゃあ、二人ともまたいつでも連絡しなさい。案内するから・・・これ美子、羽織を引っ張るな。失礼じゃないか・・・」
「お父様は話が長いんです」
その後二人は、行く先々で足を止められては、色んな人へ挨拶をして回っていた。
「やれやれ、助かった。しかし会長、さすがに忙しそうだな・・・」
「まあ、道場長ですからね」
「あの朝倉さん・・・ちょっといい」
てっきり二人に付いて行ったと思っていた成美に、後ろから名前を呼ばれて飛び上った。
「あれ、いたの・・・って、えっ!?」
突然目の前に跪いたと思ったら、成美が断りもなしに、俺の袴の紐をスルリと解いた。
「ちょっと、ナルミン・・・?」
前波も焦っている。
「少し直させてもらいます」
ところが成美は、公衆の面前で男を脱がせているという意識はないらしく、焦る俺達の顔には目もくれずにさっさと紐を解き、背中のベラを抜いて後ろ板を外された。
着物の裾があるとはいえ、袴からお尻が丸出しだ・・・。
これは結構恥ずかしい。
「えぇっと・・・」
「朝倉さん、ちょっとだけ万歳してくれる?」
成美がここで一旦顔を上げた。
「ああ、はい・・・」
俺は大人しく両腕を上げる。
「これで・・・っと、少し動きやすくなるんじゃないかな・・・よいしょっと」
着物の裾を気持ちゆったり目に引っ張りだすと、改めて紐を締め直される。
少女の細い両腕が後ろに回されて、すぐ目の前に跪いている成美が俺の腰に抱きつくような格好になった。
・・・いや、ヤバイだろう、これは。
ふと、気のせいではない、突き刺さるような視線を感じ、そちらを見ると・・・。
「鴻巣・・・社長」
なんてこったい。
「よし、完了! 試験頑張ってね」
そう言って、出来あがったお腹の辺りを、小さな両手がポンと叩く。
「うん、どうもありがとう・・・頑張るね」
頑張ってどうにか誤解を解いてみるよ・・・。
「さてと、次は先生・・・」
「ああ、俺はいいよ、ナルミン・・・うわっと、ちょっと・・・止せって」
空気を察した前波が焦って掌を振りつつ断るが、あっさり成美に掴まり、再び逆転よいではないかショーが始まった。
「朝倉君」
「ああ、どうも社長。誤解です」
「これから審査なんだね」
俺の言い訳はあっさりと無視された。
「ええと・・・そうです。まずは筆記からなんですけどね。初段は大したことない筈なんですけど・・・それでも、緊張してます」
俺は手にした筆記用具を振りながら苦笑した。
「そうか。まあ頑張りなさい」
そこで一呼吸置くと、社長は成美達に背を向けた。
俺もそれに倣う。
「先日はその・・・本当に悪かった。成美にも黙っててくれたみたいで・・・なんと礼を言ったらいいのか」
「ああ、いや・・・俺こそ。生意気言ってすいませんでした。それと、お約束ちゃんと守って頂いたようで、こちらこそ感謝します」
あれから俺は間もなく、城東電機と2000回線のMNP転入の契約を成立させるために、二宮と二人、再び城東電機を訪問した。
その後も更に何度か、事務手続きや新たな営業のために、時には俺一人で訪れたが、あれ以来、鴻巣はけして一人で俺の対応をしなくなった。
それが俺への気遣いのためか、ただの偶然かは判らない。
最近では総務部長とのやりとりだけで手続きが完了することもよくある。
ワンマン体質が少しずつ変わって来ているのかも知れない。
「そろそろ行かないと不味いんじゃないのか?」
指摘されて後ろを見ると、すでに各道場の受験者達が整列していた。
いつのまにか成美も列に並んでいる。
「朝倉さん行きますよ!」
「ああ、判った。それじゃこれで失礼します」
後ろから名前を呼ばれて前波に声をかけると、鴻巣へ挨拶だけして俺も列へ加わる。
間もなく開会の挨拶が述べられて、君が代が流れた。
番外編『ある日曜日の夜の出来事。』(※注 18禁)を読む。
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