案の定、ティッシュの店に入って行こうとする男の手を引っ張り返して足を踏ん張る。
「どうかしたの? 俺、寒いし早く入ろうよ。中、あったかいよ? お兄さんも手こんな冷たいじゃん」
「ぼ、僕、そんなつもり……ないから……」
繋いだままの手を掲げられ、焦って手を引き放す。
「何それ。……ははは、まるでラブホに無理矢理連れ込まれそうになってる女の子みたいだね。いや、JKでも今どき、そんなあざとい反応見せてくれないって。なんか面倒だなあ……っていうか、俺変な事した? ゲロってキモがられてるアンタに優しく声かけてあげて、ティッシュ貸したげて、ついでにちょこっと休憩させたげようってだけでしょ? それを何……、なんかされそうになってるみたいなカオしてさ……。俺、そんな悪人顔? んなわけないよねぇ。店でもナイスガイのヤマト君で嬢達に評判だし。じゃあ、強引に俺がここまで引っ張って来たんだっけ?」
「それは……違う……かもしんないけど」
突然豹変した男……打って変って、ヤマトの威圧的なものの言い方に僕は大きく動揺していた。さきほどまでの優しい青年とはまるで別人だった。言われてることは滅茶苦茶だが、何がそうさせたのかを反射的に考えてしまい、ひょっとして自分の言動が原因ではないかと疑う。自分が悪かったのかも知れないと帰結する……そうなると、ますます何も言えなくなっていた。
「だよねえ。だったらさあ、大人しく俺の好意に甘えてくれたっていいんじゃない?」
再び手を掴まれた。
「けど……ここ、キャバクラ……」
「何が悪いわけ? まさか偏見? へえ、フジエレクトロニクスの社員様は、キャバクラを職業差別されるってわけですか」
「ちがっ……そうじゃなくて、その……お金ないし……」
これは事実だった。月給20万そこそこの工場の仕事では、家賃や生活費を差し引けば、自由になる金などたかが知れている。それでなくてもマリンホールで馬鹿みたいに酒を飲んで来たあとだ。今月はもう、それほど余裕が残っていない。キャバクラの料金システムがどうなっているかなど知る由もないが、このような悪質な客引きがいる店であれば、一層碌な結果にならないことは、容易に想像がつく。
「ケチケチすんなよ、一流企業のサラリーマンがよお……って、おい!」
不意に身体を強く後ろに引かれ、ヤマトの手が僕から離れる。同時に大きな誰かへ、背後から絡めとられていた。
「えっ……」
視界から店構えの明るい照明が閉ざされ、目の前に誰か……後ろに現れた者が、自分の前に歩み出たのだと理解する。
「わが社の社員があなたにご迷惑をおかけしたようで申し訳ございません。これはお詫びの品、……よければ使って下さい」
「な……」
若々しい細身の背中、濃い色のスーツ、そして馴染み深い煙草の香り……年齢の割に落ち着いた声……その場になぜか突然現れた人物が、誰であるかを知って驚いた。同時に、こんな格好の悪い現場を見られたことが恥ずかしくて動揺する。
「ハァッ……? よその店のティッシュなんていらねえよっ。っていうか、あんたもフジエレクトロニクスの社員なのかよ、訴えられてぇのか! 営業妨害だろ、これ!」
語気も荒く男が腕を上下に振り払い、足元の水溜りが小さな飛沫をあげる。勢いよく投げ捨てられた原色使いの下品なティッシュは、今しがた自分が貰ったものと大差はないが、近所の地名とライバル店らしき下品な店名が、整形顔、あるいはフォトショップ修正顔の女の写真とともに、封入チラシへ印刷されていた。
「ほう……そう来ますか。まあ、やりたければご勝手に。そちらこそ、客引きは風営法並びに条例で禁止されてますよ。まさかご存じない? おまけに、さきほどから彼はずっと入店を拒否する意思を明確に示していた筈です。にも拘わらず、あんたは強引に、なおかつ恫喝しつつ、力づくで店に引っ張り込もうとしていた……恐喝、暴行……どんな罪状が付くかは、実際に裁判で争ってみないとわからないが、……ひとまず、まちがいなく店は営業停止を食らうだろうし、それだけ悪質ならあんた個人にもどんな刑罰が下るか、むしろ楽しみだ。いやあ、ワクワクしてきた。ここは徹底的に争いましょう」
「ちっ……もういいよ……コイツ連れてとっとと帰んな」
そう告げ、男が一人で店に戻ろうとするが。
「待って下さい。どうして行っちゃうんです? あなたが言いだしたことなのに」
なぜか背後にいた男……狼森(おいのもり)が、キャバクラの客引きを、逆に呼び止め、腕を捕まえていた。ヤマトは目を剥きギョッとする。
「な、なんだよ……謝れってんならあやま……」
「いや、謝らないで。俺を訴えるんでしょ? 謝っちゃったらそこで終わりです」
「はあ? 意味わかんねえ……っていうか、あんた一体なんなんだよ。気味悪いな……っ!」
「一度は戦うって宣言したんだ。だったらどこまでもその主張を通してください。俺もとことん戦います。あなたはあなたの主張をしっかり訴えて」
「主張なんかべつにねえよ、……何そこで食いさがってんだよ! 金か!? ああ、そうか強請ろうってのかよ! わかった、今財布とってくっから……っていっても、俺借金取りに追われてっから、そんな持ち合わせねえけど」
「お金なんていりません。俺はあなたと徹底的に戦いたいって言ってるんです。男でしょ? だったらお互い堂々と争いましょう!」
「ああ、もういらねーっ……なんなんだよ、あんた! きめぇよ! 怖えぇよ! 頼むから、もう勘弁してくれ……帰ってくれよ! ……この通り、謝っから、2度と客引きなんてしねえから……!」
突然、客引きのヤマトはその場に膝を突き、頭を垂れる……彼の店の前で土下座したのだ。
「ああ、……謝っちゃいましたか……つまらないなあ」
心底残念そうに狼森がそう言うのを聞きながら……今度こそ僕は目を瞠った。スタイリッシュで艶のある狼森の黒い革靴が、ヤマトの後頭部を踏みつけた。薄汚れた古いアスファルトの表面に青年の顔は擦りつけられ、形の良い鼻がぐにゃりと押し潰される。人に土下座をさせ、土足でその頭を踏みつけている男の顔を見上げる……足元を見下ろしている美麗な横顔は、目を輝かせ、上品な口元に薄笑みを浮かべていた。
無言で人の頭へ靴の裏を擦りつけていた狼森が、漸く足を下ろす……その間、たっぷり1分は経過していただろうか。そして、思い出したとばかりに目の前の男がこちらを振り返り、狼森と目が合った。その途端に、昼間の剣幕を思い出し、僕は咄嗟に視線を外す。
……そういえば、なぜ彼はここへ現れたのだろう……考えながら、すでに狼森が体勢を変えているにも拘わらず、相変わらず土下座を続けている客引き青年を見て、次にその視線を通りの奥へと向けて、ここがキャバクラや風俗の店が並ぶ界隈であることを思い出す。それも、この店より奥……つまり狼森が現れた方向と言えば、風俗店しか並んでいない。……ここに来るまで、狼森はどこへ行っていたのだろうか。そう考えると、また胃が気持ち悪くなってきた。
不意に肩を叩かれる。
「え……」
そのまま身体を引き寄せられ、風俗街の方向へ狼森が歩きだす。
「あ、あの……どこへ……」
周りは露出の高い服を着た女が、大きな胸の谷間を見せ、笑いかけている看板ばかりだ。さらに商店街を抜けたその向こうには、ラブホテルのネオンサインが見えている。
何を思ったのか、狼森が呆れたように苦笑した。
「とって食いやしませんよ。辛そうだからタクシーが捕まるところまで、連れて行ってあげるって言ってるんです……それとも、まさか俺とどこかに入りたいと?」
「ば、馬鹿言うなっ……」
含みのある言葉を投げつけられて、僕はカッとなった……冷静に考えれば、冗談でしかない筈なのに、何を焦っているのだとすぐに後悔する。
「へえ……随分と可愛らしい反応をするんですね。これではあの客引きが無理やりにでも捕まえようとするわけだ」
「何を言って……あれはただ、僕をボッたくろうとしていただけで」
「そのぐらいの勘は働くんですね、安心しました。あの店は度々警察沙汰を起こして営業停止を繰り返している悪質店です。この辺じゃあ有名みたいですよ。ただ、いい年をしてぼんやりしている男が店先で若い男にどこかへ連れ込まれそうになって騒いでいるのは、なんというか……あらぬ想像を掻き立てられるのでね。しかし、人目を引くことがわかっていながら、彼があなたに執着した理由が、なんとなく俺にもわかったと言っているんです。あなたはちょっと……男の征服欲や嗜虐心を刺激する。どうにかしたくなってしまう……」
綺麗な二重瞼を持つ切れ長の目がスッと細められ、形の良い指が肩先に伸びて来た。僕は慌てて彼から身を引く。
昼間の剣幕とこの言動……危ないところを助けられたことには感謝するが、僕にはこの狼森という男がよくわからなくなっていた。深夜に差し掛かるような時間帯だから、あるいは彼もどこかで飲んできて、酔っているのかもしれないが、それにしても発言が不穏当だ。客引きの男に対する行動も普通ではない。僕が嗜虐心を掻き立てると言ったが、もともと狼森には、そういうサディスティックな性質があるのかもしれない。考えてみれば、昼間会社で僕を詰った状況も、殊更声を高くして、わざと人目を引き付けていたようにも考えられる……もちろん、僕の仕事や行動に原因があることは理解しているが。
「あれ……どうかしましたか? なんだか顔色がよくない。本当にどこかで休憩したほうがいいのかな」
狼森が足を踏み出し距離を詰めてくる。僕はさらに一歩身を引いて距離をとる。
「やだな……まさか俺が怖いんですか? ハハハこれはおかしい……あのリョウちゃんが、俺を怖がるなんて」
「えっ……」
突然、懐かしい呼び名で呼ばれてギョッとする。またスッと手が伸びてきて、咄嗟に踵を返すと猛ダッシュで路地を駆け抜けた。商店街を出る直前に振り返ったが、意外なことに彼は追いかけてこなかった。
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