『雲の彼方へ』(下)
それは金曜日の終業時間を10分ほど過ぎたころのことだった。バサンッという派手な音と共に、目の前へ10数枚のコピー用紙が現れる。重ねられていた紙束が、直後に勢いで机の上に広がった。
「あ、あの……」
僕はそれを持ってきた人物を茫然と見上げる。紺色のスーツを着た細身の男もまた、侮蔑も顕わに自分を見下ろしていた。
「FP3系は商品入れ替えがあるって、前にも言いましたよね」
「確かに聞いたけど……ええと、あれ……?」
コピー用紙を手にとって内容を確かめてみる。それはオペレーター達が受付をした送付状だった。宛先や部数は異なるが、いずれもFP3系のDM請求が含まれている。確かに全て新型商品のDMに変更して貰わないといけないが、これらは彼女達に注意すべきミスであり、僕に言われても困る。FP3系の商品入れ替えについては随分前に掲示板告知がされているし、朝礼で何度も伝えている筈だ。
形の良い指が下に重なっていた送付状を、一番上にして、その上に大きな掌を強く下ろした。デスクがバンッと派手な音を立てる。隣にいた百目木(どめき)がギョッとしたように目を見開いてこちらを振り返った。
「これなんて商店主らしき会員からの大口注文です。それぞれが彼のお客様へ配布されるってことですよ。そしたら、一体どうなると思います? 各顧客から問合せや注文が入るんですよ。その度に総合案内課は対応に追われるんです。何よりお客様に迷惑でしょう」
「だから……まだ送付前なんだし、すぐ作り直せば……」
とりあえず、オペレーターにミスを指摘して謝罪の電話を入れてもらうべきだろう。嫌な顔をされるかもしれないが、それは自分達のミスなのだから仕方ないし、彼女達も納得する筈だ。何もここまで、僕を相手に怒ることでもあるまい。そう考えていると。
「マニュアルからどうして資料コードを削除しなかったんですか! リストにあったら受け付けるに決まってるでしょう!」
殊更大きな声がフロアに鳴り響いた。水を打ったように部署が鎮まり返る……社員どころか、残っている遅番のオペレーター達もその大半が僕らを茫然と見つめていた……動悸が激しくなり、顔が真っ赤になっていくのがわかる。
「ま……まあ、まあ……狼森(おいのもり)君もそのへんにしてさ。ええと、まだ電話してる人もいるし……。それより送別会がもう準備出来てるみたいだから、行ってあげて。主役がいないと始まんないからさ……」
「すみません。行ってきます。……それから鹿橋(ししばし)さん、大きな声出して申し訳ありませんと、皆さんにも伝えておいてください」
「平気平気。百目木なんて日常茶飯事でやってるから」
静かに頭を下げて部屋を出て行く狼森を見送る。鹿橋も自分の席に付くと、黙って仕事に戻っていた。部屋は平常を取り戻したが、心臓はいつまでも早鐘を打っていた。15分ほど経ったところで、ぽつりと百目木が顔を上げたかと思うと。
「鹿橋さん、僕の声ってそんなに大きいですか? 鹿橋さんよりは静かだと思うんですが……」
向かいの席で鹿橋が派手に吹き出した。
「お前、今までそれ考えてたのかよ! ……いや、俺が言ったのは話し声じゃなくて……まあ、あんまり気にしなくていいよ。お前のは聞いてて、別に不快じゃないし」
つまり、言いかえると狼森の声が不快ということだ。
「そう言われても……。まあ、確かに狼森君のはちょっと、なんていうか……怖いですからね。ここんとこ毎日だったし。彼、確か週明けから本社の営業ですよね」
話を続けながらも百目木は印刷物のページを捲り、ブランクにテンキーを打ちこむ。どうやらオペレーター達が本日対応した内容とデータ上の照合作業をしているようだった。
「そうそう。何せ営業第一の馬門(まかど)部長が面接のときから惚れ込んでたって言うからなあ……」
鹿橋も仕事の手を止めずに会話に付き合った。
「狼森君ってK大でしたっけ。学閥ですかねえ?」
「まあ、馬門部長もK大だし、確かに自分の後輩ってなると、少しは欲目もプラスされるだろうけど、あそこは元からT大、W大、R大さまざまだろ」
「じゃあ、やっぱり帰国子女っていうのがいいんですか? 僕もTOIC600点あるんですけどねえ……」
百目木がさらりと、自慢するでもなく語学能力をひけらかすと、鹿橋が漸く顔を上げて食い付いた。
「なんだ、お前すげえな。俺も英検3級だけどな。……いや、ちょっとワケアリみたいだぞ。なんでも狼森は社長直々にスカウトしたんだか、推薦状受け取ったんだか、とにかく社長がらみらしいな」
とっておきのネタだとばかりに鹿橋が裏人事を匂わせると、百目木も仕事の手を止めて鹿橋を見る。
「なんスかそれ? 彼ってキレるとは思って……ああ、性格的な意味じゃなくて、頭いい人だとは思いましたが、そんな凄いんですか? ところで鹿橋さん、英検3級は、いまどき小学生でも自慢出来ませんから」
「よくは知らないけどなあ……とにかく、社長が狼森ひっぱって来てたってのは、間違いないらしい。けど、総務と海事が色々妨害工作してるつう噂があって、ひとまず馬門部長が狼森を手元に置いて面倒見ようってことになったらしいな」
「ええと……よくわかんないっすね。っていうか英語そんな出来んなら、営一よりは海外事業部の方が向いてる気がするんですけど。総務って、そういえば社長のドラ息子がいるんですよね……って、まさか……」
百目木が何かに気が付いたように言葉を切って向かいへ視線を送ると、鹿橋が大きく頷いた。
「ああ、多分な。どうも、狼森入社の経緯からして、そっちがらみっぽいぞ。とりあえず、お前、言葉には気を付けろな……」
ドラ息子発言にひっかかって、鹿橋が百目木に釘を刺した。
ちなみにこのドラ息子もまた、百目木や狼森に劣らぬ美男子で、噂によると社長夫人は元々、美人揃いの秘書室の中でも群を抜いた美女だったらしい。そして当時、秘書室長だった現社長は、入社間もない彼女を気に入った。言わば社内恋愛の末、玉の輿となって二人は結ばれたわけだが、どうやら当時すでに社長には前の奥さんがいて、元々不倫だったらしいだの、奥さんは身体が弱くて子宝に恵まれず、秘書が先に妊娠したから、前の奥さんは捨てられただの……まあそんな、どこまで本当かわからない話を、例によってオペレーター達による給湯室のお喋りで、僕も先日知ったばかりだった。ところが、顔だけ似れば良かったものを、頭の出来も母親そっくりで、第3工場から来たアレと目くそ鼻くそな、ダメ社員だという……もちろん目くそ鼻くそのアレとは僕のことである。とはいえ、顔だけは美形なものだから、総務の女子社員と遊びまくっているとか、遊び相手は女子だけではなさそうだとか、ここだけの話、同期の営一のエースが本命だとか、実は企画の主任と三角関係らしいだの、それどころか海事の男性陣が争奪戦をしているらしいだの……まあ、後半はまちがいなくオペレーター連中の想像というか創作の域を出ない話だ。いずれにしろ、社長にとっては頭の痛い一人息子に違いないようだった。
百目木が話を受け継ぐ。
「確かに海事が常務派に付いたって話は聞いたことありますけど、じゃあ、鑓水(やりみず)常務が出来の悪い八戸(はちのへ)君を後継者に仕立てて、フジエレクトロニクスの全権握ろうと企んでるって噂、あれってマジなんですか? だから自分の息子に絶望した社長が、優秀な狼森君に目を付けて引っ張りこんだと。で、社長と仲の良い馬門部長が、狼森君を面倒見ることになったってわけなんですね。なんか社長派と常務派で社内抗争っぽくなって来ましたねえ、やだなぁ……。大企業のフジエレクトロニクスって言っても、所詮は同族経営っすもんねぇ。どんなに頑張っても、出世に限界があるってわけですね……」
「お前が重役入りや子会社の社長でも目指してるっていうなら、確かに適当に見切り付けた方がいいと思うが、辞表出す前に日本のファミリー企業は経済全体の9割以上を占めてるってことを頭に入れてから行動しろよ」
「弘前(ひろさき)部長も誰かと従兄弟でしたよね。ええと、第3工場の階上工場長でしたっけ……?」
僕は思わず顔をあげた。出向期間を終えた僕が来月から戻る、本来の所属部署が第3工場であり、さらに言えば、この度の出向を自ら僕に詳しく説明しに来てくれた人が、第3工場の階上奈菜瀬(はしかみ ななせ)工場長だ。
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