結局、一人の右翼青年がしでかした他愛もない悪戯によって、伊沼は志半ばにしてその夢の恐らくは半分も叶えられず退陣に追いやられた。橋渡しをしたのは、ほかならぬこの九頭だ。右翼の青年は、それこそ本人がまだ美貌の母の腹で生命を授かった頃からよく知っている……実際のところ、親戚の子供のようなものだと、九頭自身は感じていた。
青年の父である、若き陸軍大将であった秋津叢雲(あきつ むらくも)が、1級戦犯としてスザク拘置所で、けっして長くはなかった生涯を閉じ、多感な年ごろだった青年が訃報をもって政治活動へ傾倒していったことを、九頭は知っていた。まだ40代の保守系総理と右翼青年が、容易に共鳴し合うであろうことも、九頭には充分予想出来ていたのだ。そして九頭が間を取り持てば、必ず伊沼が応じるであろうことも。果たして結果は思惑通りだった。
伊沼は、ともすれば20年前の彼がいかにも言いそうな青臭い事を、目の前で青年に語られ触発されて、ここにいる天満皐月(てんま さつき)や、今は九頭付きとなっている京橋夏芽(きょうばし なつめ)といった黒服達が、秘書らと共に止めるのも聞かず、恐らく青年の期待通りであった本心を次々に吐露していった。結局伊沼との約束を破った青年が隠し録りの音声をアルシオンの動画サイトへアップロードして、その内容は国内外を揺るがすスキャンダルとなった。官房長官の鈴林佳史(すずばやし よしふみ)や、外務大臣だった柳本哲成(やなぎもと てつしげ)、そしてもちろんこの九頭自身も、アルシオンを中心とした主要国や、マスコミの対応に追われ続けた。結果として責任を問われた伊沼は自らの意志で退き、彼の根回しを待つまでもなく九頭は第92代内閣総理大臣となった。
夢半ばに総理の座を追われた伊沼はどこか寂しそうではあるが、それでも睡眠時間がしっかりとれるようになり、面倒くさい建前に煩わされることもなく、したい仕事をやりたいようにやっている……そんな姿は、総理時代に比べてずっと生き生きして見える。また、右翼青年が投じた一石で驚くほど世論の風向きが変わった為か、言いたい事をはっきりと言うようになった伊沼は、今やテレビ、雑誌で引っ張りダコのようだ……これまで彼らが、どれほど伊沼に冷たかったを考えると、マスコミの現金さに九頭は呆れるばかりだった。それでも、文字通り命を削る激しさで、健康を害しながら、悲壮感と孤独を背負って、細い身体で賢明に走り続けていた伊沼は、ああでもしなければ本当に殉死しかねなかったことであろう……やり方はともかく、今でもあの判断が間違っていたとは、九頭は考えなかった……もちろん、真実を知った伊沼が、彼を許すことは絶対にないだろうが、知られるほど九頭が愚かでないこともまた事実だ。
ふと、眩しそうに目を眇めている伊沼の目線を九頭は追った。真っ青な南の空を背景に、爽やかな風を受けてはためいている国旗が、そこには掲揚されていた。不意に堪らなくなって、九頭は目を伏せる……還暦を過ぎた九頭の目に、清々しい朝日を透かしてきらめく桜花旗は、あまりに眩しすぎた……あるいは良心の呵責などという清廉な感覚が、まだ九頭の胸にもあったのかもしれない。背筋を伸ばして目の前に立つ、未だ情熱溢れる男が、誰の前であろうと堂々と愛国心を語ってみせる伊沼秀慈が、国を導くリーダーとして相応しくない筈があろうか。彼を引き摺り落とし、したたかにも自身がその椅子へ座り込んだ九頭の目にさえ、今、この国に最も必要な男がこの伊沼秀慈だと、自信を持って断言することができる。それでも、九頭は伊沼を背後から撃った……ただ自身の欲一点のみで。あれ以上、伊沼が傷付いていく姿を見続けることは、九頭には到底耐えられなかった。
俺は国より秀慈をとったのだろう……。
「そういえば、さきほど京橋君から連絡がありましたよ……一郎さん?」
苦しい瞑想から不意に現実へ引き戻され、九頭はふと瞼を開いた。九頭にとっては特別な響きで伝わる声が自身の名を呼び、思わず顔をあげると、若い頃とさほど面影が変わらぬ美しい面が、僅かに上背で勝つ自分を見つめながら、表情を曇らせている。反応が鈍かった為、心配させたのだろうか……。
「いや、すまない……議事堂を迂回してきたせいか、ちょっと疲れていてね……最近は朝から日差しがきついから、散歩もほどほどにせんといかんなあ」
首からタオルを外して適当に折り畳み手に持つと、大袈裟に振って顔を扇ぎながら九頭が言う。
「総理は激務なんですから、本当にほどほどになさってくださいね、けっしてお若くはないんだし……それから、あまり京橋の仕事を増やすことも大概にしてください……まあ、今頃こちらへ向かって走っている最中とは思いますが……ところでそれ、涼しいんですか?」
森之宮がタオルを指差しながら訝しそうに言った。
「……またSPに黙って出てらしたんですね」
「んー……昨夜のうちに言った気がするんだが、言うつもりで忘れていたかな」
語りかけたつもりもない森之宮が、それも大概礼を欠いた言動で、招いてもいないのに自分と伊沼の語らいに割って入った為、九頭は敢えて無視した。それでも森之宮の発言を受けたのだろうか、伊沼が苦笑しながら真相を突くが、九頭はこれにもとぼけてみせる。だが、彼がさきほどから自分の携帯を手にしながら話しているところを見ると、前総理付きSPであり、今は引き続き総理付きSPである京橋夏芽は、あろうことか伊沼の携帯へ図々しくも電話を架けて、総理の単独行動を報告したようだった……伊沼の番号を知っていることを良いことに、何かに付けてあのSPは、今は直接の担当ではない伊沼に電話をして話しているようだが、馴れ馴れしいにも程がある。大方自分に電話を架けて居場所を聞いても、適当にはぐらかされるものだからという大義名分を掲げて、厚かましく伊沼に電話しているのだろうが、理由は絶対にそれだけではあるまい……まったく森之宮といい京橋といい、もう少し分相応を弁えて頂きたいものだ。もちろん、京橋が電話を架けてきて、勝手にウロウロするなだの、いまどこにいるのかだのと、小煩いことを言おうものなら、自分は適当に誤魔化して電話を切るに決まっている。
不意に中門鳥居付近がガヤガヤとして、振り返ると、さきほどの屈強な男達がそこに集まっていた。見る見るうちに彼らがこちらへ入って来る。ランニングシャツにねじり鉢巻きの男達が、汗に光る逞しい肩の上に抱えていた鉄パイプを下ろし、見事な手際で砂利の上に設置を始める……どうやら神門前の灯篭設置が終わり、作業場が拝殿前に移ったらしい。
「ここにいると邪魔みたいですね……行きましょうか」
伊沼に促され拝殿前を後にする。中門鳥居を抜ける際、先ほど九頭に声をかけたきた男と再び擦れ違った為、今度は自分から「お疲れさまです」と声をかけると、振り返った男は軽く首を動かしながら挨拶を返し、九頭の次に薄い色合いのサマースーツに身を包んだ伊沼を見て、再び九頭へ視線を素早く戻した……汗だらけで日焼けした顔の男は目をまんまるく見開き、口をあんぐりと開けたままパクパクとさせていたが、何かを発する前に親方らしき男から怒鳴られて彼の仕事へ戻っていた。
04
『短編・読切2』へ戻る