『ゴドリー巡査部長の事件簿〜バックス・ロウ殺人事件〜』 早朝のブレイディ・ストリートは8月だというのに、ずいぶんと空気が冷えているように感じられた。
・・・ ・・・ 第1部 ・・・ ・・・
角灯を持って歩くジョン・ニール巡査は、疲労のせいか背をやや丸めながら、重いブーツで土をザクザクと踏みしめて目の前を歩いている。
「ここからはもっと暗いですから、どうか足元に気をつけて歩いてください。こちらです」
そう言いながらニールは、人の良さそうな笑顔で後ろを一瞬振り返り、誘導をするように煉瓦塀の角を曲がっていった。
今の言葉は、同じベスナル・グリーン署に所属する俺、ジョージ・ゴドリーへ告げられたものではなく、おそらくさらに後ろを歩いている、本庁勤務のフレデリック・ジョージ・アバライン警部補へ向けられたものなのであろう。
もっともアバラインは、昨年2月にホワイトホールへ異動になるまで、10年以上もの長きに亘りH管区のホワイトチャペル署へ勤務していた。
現在の所属であるCO管区(本庁)へ配属されたのは、同じ年の11月19日のことだ。
色白の肌に品の良い細面の顔立ち、物静かな佇まいで、世間知らずなエリートだろうと勘違いしそうになるが、こんな裏路地の片隅に落ちている、石の形の一つ一つでさえ、きっと俺たちなどより余程頭に入っていることであろう。
俺も本人に出会ったばかりのころ、その経歴を知らずに、同じような態度で彼に接し続けて、後から大恥をかかされたものである。
・・・いや、正直に言おう。
ニールの丁寧な言葉遣いに比べれば、俺がアバラインに取った態度は、少しばかり横柄なものだったかも知れない。
「ありがとう」
親切心から告げられた自分への言葉に対しては、アバラインもニールへ紳士的な態度で応じることにしたようだった。
「なんだ、ありゃ・・・」
煉瓦塀の角を回り、目の前で繰り広げられている信じがたい光景に、俺は思わずそう呟き、続いて大きな溜め息を吐いた。
「ああ、アバライン警部補に、ゴドリー巡査部長! こんな早朝からご足労頂きまして、申し訳ありません」
厩舎の前から、一人の制服警官が俺達のほうへ駆け寄ってくる。
「警部補、彼が第一発見者から通報を直接受けた、ホワイトチャペル署のジョナス・メイスン巡査です」
ニールが律儀にアバラインへ向き直ってから、若い制服警官を紹介した。
「やあ、ジョナス。朝早くからご苦労様」
「恐れ入ります、アバライン警部補。・・・ご無沙汰しております」
「ええっ、ああその・・・、えっと・・・?」
アバラインに労われて、メイスン巡査は幾らか頬を赤らめ、声を上擦らせさえしながら応じていた。
もっとも、街灯の明かりもろくに届かない、早朝の路地の曲がり角では、顔の色などまともに見えないのだが、声を聞く限りにおいて、ジョナス君の瑞々しい頬が薔薇色に染まっていることなど、刑事である俺にとっては直接目で確認するまでもないようなことだった・・・つまり、勝手な想像だ。
さらに高い響きで、言葉にならない声を漏らして、突発性言語障害を起こしたのがニールだった。
「アバライン警部補は、去年までホワイトチャペル署所属だったんだよ。俺も最近知ったんだがな」
「そ、そ、そういうことは、もっと早く教えてくださいよ! ・・・は、恥掻いちゃったじゃないですか」
親切心から、そっと耳打ちしてやった先輩に向かって、まるで俺のせいだと言わんばかりにニールが反論してきた。
「いきり立つなよ。お前はまだ、ましな方なんだって。俺なんか、警部補にイーストエンドの流儀7か条を繰り広げて、どれだけ恥掻いたと思っているんだ。しかもその30分後から、本人とコンビを組まされて、ウェントワース界隈のパブやら、入りくんだ路地に建つ下宿屋やら救貧院やらへ聞き込み開始だろ? おまけにフレッドときたら、終始あのお上品な涼しい顔で、何にも教えてくんないし・・・。せめて一言ツッコミを入れてくれりゃあ、俺も笑って終わりに出来るってのに、気不味いなんてもんじゃないっての」
「あはははは、それは酷いですね。僕らもたまにはこうやって、H管区の応援に駆り出されるとはいえ、所詮は他所様の庭ですしね。でも、あのアバライン警部補にツッコミを期待するのは、ちょっとどうかと思いますよ。・・・ところで巡査部長、イーストエンドの流儀7か条っていったい・・・っていうか、フレッドって今言いました!?」
「ジョージ、中に入るぞ」
てっきりメイスンと旧交を温め続けているとばかりに思っていたアバラインは、どうやらさっさと発見時の状況を聞き出していたようで、早速、目の前に建っている、古い倉庫へ入っていこうとした。
その奥が、仮の遺体安置所にされているらしい。
「うわっ」
突然、足元に水飛沫を掛けられて、俺はたたらを踏む。
「あ、巡査部長大丈夫ですか? ・・・こら、気をつけろ!」
ニールは俺に気遣いの声をかけた後で、雫の落ちるバケツを持ったまま、まだぼんやりと立っている、眠そうな男に対し、高飛車な物言いで怒鳴りつけた。
不意に目の前のアバラインが足を止めて、帽子を被っている華奢な少年に声をかける。
「おい」
スーツ姿の手には、なぜか古ぼけたデッキブラシ。
どうやらその少年から、掃除用具を取り上げたようだ。
「あ、あのっ・・・」
14歳か、15歳ぐらいだろうか。
帽子に厚手のコート、裾を折り曲げたサイズの合っていないズボンという粗末な服装から、即座に少年だと判断したが、よく見ると男か女か迷うような、清楚で可愛らしい顔立ちだ。
だが、ややハスキーで女にしてはかなり低い音域の声を聞く限り、性別は恐らく男で合っているだろう。
若い彼は目を大きく見開き、褐色の瞳に怯えを滲ませながら、微かに震えてアバラインを見上げていた。
東洋人の血が入っているだろうか・・・だとすれば、実年齢はもう少し上かもしれない。
「ここで何をしている」
アバラインは厳しい口調で少年に質問をした。
「掃除を・・・・、あの・・・もっと、ちゃんと綺麗にしますから」
やり方が悪いと、叱られているとでも思ったのだろうか、少年はアバラインに言い訳をしようとした。
掃除をしていることなど、遠方から見てもすぐにわかったことだ。
だから、俺もアバラインも、通りへ入った瞬間にうんざりとした気持ちで暗い空を見上げて、或いは項垂れて、溜息を吐いたのだ。
同じようにブラシを持った人々は、いずれも少年と大して変わらない、身窄らしい身なりと、痩せ細った顔をしていた。
年齢はさまざまで、男もいれば、女もいる。
誰の指示かは知らないが、彼らは近隣の救貧院から駆り出されて、道路を綺麗にしろと命じられたようだった。
それほど、この現場に残された血や残存物が、汚らしかったのだろう。
できればもう少しだけ我慢をして、そのまま保存しておいてほしかったが、これは今更言っても仕方がない。
「ああ、アバライン警部補ですよね・・・、どうかされましたか」
倉庫の中から、長身の若い制服警官が出てきた。
肩章を見ると、どうやら俺と同じで階級は巡査部長のようだった。
「君は?」
「自分はホワイトチャペル署のウェイン・コッブスと申します。ここの指揮を任されています」
「知らない顔だな」
「春までイズリントンにおりました」
「俺もイズリントンにいた」
「・・・昨年の冬までは、入庁より2年間、ハマースミスにおりましたから・・・、ただの擦れ違いだと思われます」
「俺がイズリントンにいたのは、20年以上も前だから、俺もそう思う。巡査部長昇進はハマースミスでか?」
矢継ぎ早にアバラインは、コッブスへ質問を繰り出した。
どうでもいいが、20年前といえば、目の前の青年は、まだ路地でボールを蹴り始めたか、それすら出来ていない頃だろう。
俺はそう思ったが、どう見てもツッコミを入れられる、和やかな雰囲気ではなかったので堪えた。
「はい」
コッブスは緊張した面持ちで、短く返答した。
「マジかよ・・・」
2年で巡査部長就任といえば、昇級試験に一発合格ということである。
「この現場には、いつ到着した」
「ニール巡査より連絡を受けて、即時に急行致しましたから、4時ごろです」
「それならなぜ、あのままにさせておいた」
「あの・・・」
「君には、せっかく犯人が残していってくれた置き土産を、台無しにした自覚もないか・・・。勉強は結構だが、もう少し臨機応変な判断力を身に付けないと、現場では通用しないぞ」
そう言いながらアバラインは、少年から取り上げたデッキブラシをコッブスの胸へ押し当てるように預けた。
「ええっと・・・、その」
ブラシを受け取りながらも、コッブスは目を白黒とさせている。
ここまで言われてなお、アバラインの言いたいことがわからず、それでいて、何かを失敗したらしいことは理解できているようで、可哀相なほどにうろたえている。
どうやらコッブス君は試験勉強へ夢中になるあまり、現場では少しずつ浸透しつつあった科学捜査への理解が追い付いていないようだった。
もっともそれはコッブスの責任ではなく、CID(犯罪捜査部)を含めた、警察全体に、その体制が整っていないのだから、これをもってしてコッブスを責めてやるのは気の毒というものだろう。
だからといって、つい先ほど殺人事件が起きた区域を、封鎖しないばかりか、現場にずかずかと救貧院の宿泊者たちが入り込んで、道路掃除を始めたことには、疑問ぐらい持ってほしかったものだが。
「被害者はそっちか?」
「あ、はい・・・ご案内致します。ねえ君、これ・・・」
アバラインに促され、コッブスは手に持っていたブラシを少年に返すと、先頭に立って倉庫へ入っていった。
俺もアバラインに続いて入ろうとする。
「ジョージ、彼らを返してやれ」
「は?」
「お前も朝っぱらから、俺の説教を受けたいのか」
「ああ・・・はい、じゃなくて、いいえ!」
「ちゃんとその子を送り届けてから、戻って来いよ」