足元へ跳ね返る水しぶきも気にせず、盛大に顔を洗った江藤は、キュッと蛇口を捻って水を止める。
日差しは徐々に傾き始め、コンクリートに伸びた影は小さな彼女のシルエットが、およそわかる程度になっている。
「だから、あんまりギュウギュウ締めるなって、前にも言っただろ。後で使う人が困るから・・・」
相変わらずパッキンが弱ったまま放置されている、グラウンド脇の水飲み場は、常にどこかの水道がポツポツと滴を落としていた。
それが気になって仕方がないと、前に江藤が言っていたことを思い出す。
「あっ・・・・えっと」
江藤は蛇口から手を放してこちらを見ると、そう言ったきり、バツが悪そうな顔をして押し黙った。
目が真っ赤だ。
どこへ落としたものやら、前髪を上げていた猫のピン留も、いつのまにか消えている。
「ほら、ちゃんと吹けよ」
「いやだ、もうっ・・・」
俺は手を伸ばして彼女の首に掛かっているタオルの端を掴むと、水が滴り落ちている顔に押し当て、ゴシゴシと拭いてやる。
すると江藤は嫌がって、俺の手から逃げるように顔を背けた。
その目元はうっすら赤く、まだじんわりと濡れていた。
それが顔を洗い流した水道の水か、精一杯走り回った彼女の汗か、それでも力及ばす、自分を責めたために零れてしまった悔し涙か、俺にはわからない。
「俺はいい試合だったと思うぞ。お前らよく頑張ったじゃないか」
「そういうの、別にいらないから」
目も合わさずに江藤が、俺の言葉を拒絶する。
負けん気が強そうな彼女の目が、またじわじわと潤み始めていた。
俺はしばらく江藤の様子を観察する。
濡れたままのコンクリートのシンクへ、ジャージの腰を下ろした江藤は、猫の絵柄が可愛らしいタオルの端をギュッと握りしめて、口元を押さえると、そのまま暫くじっと動こうとしない。
目線の先は、何があるわけでもないただの地面だ。
俺も隣へ腰を下ろすと、手にしていたスポーツドリンクを一口飲んだ。
「まあ、俺がお前を慰めるなんて、確かにおこがましいよな・・・・これといったスポーツも経験してねえし、苦労の末に味わう勝利の喜びも知らなければ、負ける悔しさもわからない。お前はそれを、充分よく知っている」
「わかってんじゃない」
少し落ち着いてきたのか、江藤の声から涙が消えていた。
「けどさ、山村や野口はたぶんあれでよかったと、思ってると思うぞ」
「そんなわけないじゃない。・・・恵理子がどれだけ苦しんだか、早苗がどんな思いで彼女を見守っていたか、あんた何も知らない癖に」
「江藤」
「恵理子は中学の頃から県の選抜メンバーに選ばれていたの。あの1年達と同じような優秀な選手だったのよ。それがウィンターカップで、ろくでもない連中とあたった為に、自分勝手なプレーの末の危険なタックルでバスケの道を閉ざされた。リハビリのお陰で走れるようになったと言ってもね、けして公式ゲームで激しいぶつかりあいがあるような、試合に出られるようになったわけじゃないの。それがこの先の人生で、できるかどうかもわからないのよ。だから早苗は、せめて高校時代の最後の思い出に、再び一緒に何かの形でバスケの大会が味わえるように、あの3on3のトーナメントを考え出したのよ」
「ああ、そのへんの事情はそれとなく気付いてた」
俺は軽く受け流した。
「・・・・それをぶち壊したのが、あたしよ」
苦々しい表情で江藤が吐き捨てるように言った。
「だってお前、剣道の腕はピカイチだけど、バスケなんて素人だろ。そりゃああいう結果になったって仕方ないだろうが」
山村や野口にしたところで、それは当然織り込み済みだろう。
それどころか、俺達3−E全員が予想していたことだ。
まあ、あそこまで大差がつくとはさすがに思わなかったが。
「わかってるわよ!」
「・・・・・・」
ヒステリックに反論されて俺は閉口した。
「ごめん・・・・けれど、ちょっとだけ時間をちょうだい」
自分でも八つ当たりだとわかっていたのだろう、すぐに江藤は謝ってくれた。
考えてみれば、一番きついのは江藤なのだろう。
山村や野口の事情をよく知っていて、その思いを大事に感じていたからこそ、未経験に近いとは言え足を引っ張ってしまったことが悔しかった。
責任感が強い江藤は、そんな甘えを自分に許すことが出来ないのだ。
だから俺が彼女にかけられる言葉は、たぶん何もない。
俺が甘んじている精神的なスタンスより、江藤はいつでもはるか上に立っている。
自分の甘さを痛感させられた。
江藤はずっと勝負の世界で生きてきた。
その江藤が味わう喜びや苦痛を、俺なんかが理解できるはずなかったのだ。
けれど、俺は江藤の友達だから、これだけは言ってやりたかった。
「俺にはさ・・・3人ともすごくカッコよく見えてたぜ」
「皮肉ね・・・」
江藤が苦笑した。
これも失敗。
だが、理解してもらえなくても、俺はそう思ったのだからけして嘘は吐いていない。
江藤も苦笑しつつ、それでも落ち着いていた。
「それとさ・・・俺、江藤のそういうところ好きだから」
「えっ・・・?」
江藤がキョトンと顔を上げる。
目は真っ赤だったが、もう涙の跡は消えていた。
「だから、お前は充分悔しがって、泣いたらいいと思う・・・・・な!」
「な、何よそれ・・・あんた、慰めに来たんじゃなかったの?」
持っていたスポーツドリンクをポンと押しつけるように渡すと、江藤も反射的に受け取っていた。
「そのつもりだったけど、気が変わった。お前、そうやってプリプリしてる方が、似合ってるしな」
「うっさいわね・・・・・・ん、・・・やだっ!」
揶揄い口調で言ってやると、江藤が不貞腐れながら蓋の開いていたボトルに口を付けてゴクリと呑んだ。
そして、何かに気付いたように、慌てて口を放し、ボトルを持っているのと、反対側の掌で口を押さえる。
そのとき、俺の名前を呼びながらこちらへ近づいてくる奴がいた。
「じゃあな。適当に泣き終わったら、戻ってこいよ。皆、たぶん心配してっからさ・・・ああ、今行く!」
そう言って江藤からもう一度ボトルをひったくり、呼びに来た奴に聞こえていると応答を返す。
すっかりぬるくなっていたボトルの中身を呑み乾すと、傍にあったリサイクル用の屑籠を目がけて放り投げた。
ナイスシュート。
「ちょ・・・ちょっと原田君っ!」
慌てたように江藤が声を掛けてくる。
「ん、どうした?」
「えっと・・・その・・・」
江藤が下を向きながら口ごもっている。
顔が真っ赤だ。
「・・・・・・」
俺は待ってやった。
「・・・・・と」
「はい?」
ここまで小さいと、まるで聞こえない。
「だからっ・・・ありがとうって言ってんの、この馬鹿!」
そう怒鳴り散らすと、江藤はタオルを握りしめて立ち上がり、俺の脇をすり抜けて先にグラウンドへ走って行った。
「それは人に礼を言う態度じゃねえだろうが」
けれど、これもまた俺が好きな江藤の一面だ。
人一倍責任感が強くて、情に脆くて、素直じゃなくて、結構可愛らしい。
俺が知っている中で、誰よりも一番いい女だと思う。
「・・・ああ、今行くから!」
そして俺も、もう一度声をかけてきた奴のもとへ、駆け足で行った。
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